心を敬い、悲しませることも怖がらせることもしない。②[207/1000]

積極性はエネルギーを体内に集中させ、消極性はエネルギーを体外に分散させる。心と身体がバラバラになるとか、心身が不一致となるとかはよく使われる言葉であるが、「心とは何か」の視点を持つとこの状態についての理解は深まる。

心は肉体と宇宙エネルギーの摩擦の中に生じる気の現象であると考える。死んだ人間に生きた人間の心臓を差し替えても生き返ることがないように、人間は生きるためにこの気を必要とする。原動力はこの宇宙エネルギーであり、肉体のあらゆる臓器は気を循環させ、現象化させるための現世的なものにすぎない。

原動力である宇宙エネルギーが体内に充満すれば元気になるし、体外に分散すればエネルギー不足を起こし元気はなくなる。元気とはつまり、元の気という意味であり宇宙エネルギーの源泉を指す。宇宙エネルギーを持つ心が身体から分離すれば、身体は怠くなるし、自信をなくして動けなくなる。反対に心身が統一されれば、宇宙エネルギーを余すことなく身体上で表現できる。

 

元気な状態はただ元気であってポジティブとは違う。宇宙エネルギーの性質のままであることが元の気であってそこには一切の濁りがないものである。

物質主義の現代は生の衝動に振り切れている。そこに息苦しさを感じたのは、これが元気でもなんでもないからだろう。宇宙エネルギーは透明でフラットなものである。心は雑念や妄念を取り除き、本来の状態に近づけていけば、自然とそんな状態になっていく。これは私自身、瞑想をしていて感じていることでもあった。うるさいことが元気ではなく、派手なことが元気でもなく、元気とは、静かな風が通り抜ける草木生い茂る大地のように、穏やかで安心感のあるものではないか。

 

 

心は宇宙エネルギーと肉体の摩擦の中に生じると考える。心となる前の宇宙エネルギ―の純粋を、心となってからも純粋のままに努めることが修養である。肉体との摩擦によって心は少なからず純粋さを失う。これは人間の不完全さでありながら、人間として生まれた宿命でもある。しかし、純粋のままでいることが目的のすべてであるなら、そもそも人間として生まれる意味はなくなってしまう。宇宙が不純を嫌えば、最初から人間など生まれなくてよかったのである。

今の私では、人間が生まれた神秘は想像でしか補えないが、心を授かった人間の存在に宇宙の意志を見るならば、この宇宙エネルギーを身体を通して地上展開させてみよと言わんばかりである。

 

いい言葉聞くと元気になるのは、体外に分散していたエネルギーが、再び身体に戻ってくるからだ。言葉を読んで、私は大丈夫だ、と思えたなら心は積極性を帯び、気は再び纏まりを帯びる。

心を左右する一切は言葉である以上、言葉を大切にされたい。心を粗末に扱わないとは、言葉を大切にすることである。言葉を大切にするとは、心を貶めるような言葉が生まれても、耳を傾けるのではなく、流れていくまで静観し、相手にしないことだ。それは悪魔の囁きだ。

何もポジティブな言葉をかける必要はない。雑念妄念を取り除けば、心は本来美しいものだということを思い出されたい。

 

精神修養 #118 (2h/243h)

勉強をするにしても読書をするにしても何かを書くにしても、背筋がピンと伸び姿勢が正される時ほど、心が引き締まるのは宇宙の気が取り入れられるからだと考えられる。瞑想中も背筋が曲がるのは心に消極性が生まれている時であり、積極性であるかぎり姿勢も自ずと正される。

法を身とするとは宇宙意志を肉体で地上表現することである。その手段として与えられたのが心である。呼吸が意識と無意識を繋ぐように、心も肉体と宇宙を繋いでいる。

 

[夕の瞑想]

積極性であることが一つの目標となっている。積極性といえば、+極に振り切れたような印象があるがそれはあくまで相対的な積極性である。絶対的な積極性は、ただ元気である状態や、心が平穏な状態といったニュートラルな状態に近いと思う。自然の法を身とする人間はかぎりなく透明に近づいていく。色はなく、ただ透明になっていく。

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