心を敬い、悲しませることも怖がらせることもしない。[206/1000]

以前は理解できなかった中村天風先生の本が少しずつ身体に落とし込めるようになったのは、これまでの体験や学びと結びつくものがあったからだった。瞑想を朝と夕に1時間ずつ行うが、いつもじっと座っていられなくなるのは、100%、心に消極性が生まれた時だった。仕事のことで頭がいっぱいになれば「大丈夫かな?」と不安になり、人の顔が思い浮かべば勝手に比較して嫌な気持ちになる。嫌な気持ちになると何故かつい動いてしまう。足が痛くなった時や、外で音がするときも同じであった。この理由は自分でもよく分からなかったが、不思議だなぁと感じていた。

 

消極性から動いてしまうのは、肉体のエネルギーが分散するからだった。反対に積極性はエネルギーを集中させる。分散すれば、局所的なエネルギー不足を起こし、行動を起こす(瞑想においては座禅を保持する)ための燃料が足りなくなる。朝布団から出る時も分かりやすく、心が積極的な時は布団から勢いよく飛び出せるが、消極的なときはいつまでも布団から出られない。

 

天風先生の教えでいちばんの衝撃は、源泉のない川は存在しないように、心もまた大きな宇宙エネルギーを源泉としているというものだった。心とはなんぞやを考えたときに、宇宙エネルギーと肉体の摩擦の中に生じる気の現象であると考えるなら、心と宇宙エネルギーは性質を同じにし繋がっている。

積極性は「ポジティブ」とは違う。ポジティブは相対積極である。絶対積極は宇宙の大元のエネルギー性質そのものを指す。天風先生はこれを、真・善・美、言い変えれると正義と愛と調和と言った。つまり「絶対積極の精神でいること」は、金剛般若経を読んでからずっと問うてきた「自然の法を身とする」ことと同義であった。絶対積極の心を作ることが、自然の法となり得る実践であった。

だから心は粗末に扱ってはいけない。心を粗末に扱うことは、天に背くことを意味する。敬天愛人を思えば、心は自分のものとならず敬う対象となる。つまらないことで悲しませることも、怖がらせることもしない。いい言葉をかけて、奮い立たせてやればいい。

 

精神修養 #117 (2h/241h)

心臓だけで人は生きられるのか。脳があれば人は動くのか。極端な話、死んだ人間に生きた人間の心臓を移し替えても、人が生き返ることはない。人を動かす大元も力が宇宙から人に降り注ぎ、それを着火として人は動いているのだとしたら、なんとも壮大である。

心が宇宙エネルギーと肉体の摩擦の中に生じるものだとしたら、肉体と宇宙エネルギー(魂)の関係は切っても切り離すことはできず、どちらが欠けても心は生じない。ゆえに肉体が死ぬとき心も消える。死別の悲しみは心との別れだろうか。

 

[夕の瞑想]

瞑想における積極性とは、動かないこと、目を開けないこと、じっとしていることであり、消極性とは耐え切れずに動くことである。1時間の瞑想のうちに、何度か動きたくなる(実際に動いてしまう)瞬間は訪れるが、例外なく、100%、消極的な思考が潜在的に存在していることを自覚した。例えば、仕事のことで頭がいっぱいになるとき、「大丈夫かな」とか「不安だな」と思うときは100%身体が動こうとする。人の顔が浮かんで比較してしまい「俺は駄目だな」と思うときは100%動こうとする。

これは悪魔だと気づいて積極的な言葉をかければ、動かないままでいられる。まるで分散したエネルギーが戻ってくるようであった。精神修養とは心の消極性に気づき、積極性に保つ訓練だといえる。

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