自分がいちばん大切になれば傷つくことが怖くなる[156/1000]

自分を大切にする風潮のど真ん中で、自分を大切にすることの価値を全否定したい。

誤解を招きそうであるが、これは自虐的になれということではない。自虐性も蓋を開ければ、自分を大切にしすぎて、こじれているだけだったりする。

 

自分を大切にしないとは、絶対的な存在である自分を捨てて、天の下に生きるという考え。天は、ある人にとって愛する人、神、国、会社、恋焦がれる何か、主、志、魂だったりする。西郷隆盛の生き様といわれる「敬天愛人」と意味は等しい。

 

 

鬱になった後、数年に渡り、自分を大切にする生き方を模索していた。過去に負った傷を癒すように、涙を流して浄化する時間が無駄だったとは思わないが、自分という存在がいつも私の中心に居座り、愛を欲しても、中心に居座る自分が邪魔をしているような感覚があった。

誰かのために尽くしても、自分がいちばん大切という前提がある以上、常に「自分のため」という打算がつきまとった。自分がいちばん大切で、自分大きくなるほど、人との間に壁ができて、愛から遠ざかっていくような気がしている。

 

 

自分すら自分のものではないと、最近は感じている。

親から授かったこの身体も、この命も、当たり前のように自分のものだと思ってきたけれど、この大前提は自分の中心となった「自分」から生み出されたものだった。この大前提が破壊されたのは、かつて武士道に生きた日本人と、キリストの教えだった。自己における自分の絶対的な地位を譲ること、自らの命を命以上のものに奉げて生きることの美しさに感動したからだった。

またこれを知ることが、ブッタの本当の教えでもあったと、今では思っている。

 

 

自分がいちばん大切になれば、自分が傷つくことが怖くなる。大切な自分が傷つけば、傷つけた人間を憎むようになる。大切な自分が飢えることも、損をすることも許しがたい。

 

自分の命よりも大切だと思える何かを得がたい世でもある。多くの人間が死に場所を欲しているように思う。

私自身、思想に耽る日々がつづきながら、与えられたこの命を燃やすことにひたすら悩んでいる。神のために生きようとも、国のために生きようとも、心から思えないのは、先祖に対して無礼であり、義理のない人間だからだろうか。

もしかしたら、神のために生きたいとか、国のために生きたいとか「自分」が思えるかどうかを決めようとするが、そもそも自己中心に侵されているかもしれない。

 

 

空を仰ぎ見る。今日は雲一つなくて、陽ざしが温かい。

西郷隆盛の「敬天愛人」の天がなにを指すかは分かっていないが、それを知ることよりも、人それぞれに、それぞれの天があっていいことを知ることのほうが大切かもしれない。

 

精神修養 #66 (2h/140h)

人を裁くことすら、自分で行えるものではないかもしれないと思うようになってから、自分のものという感覚に距離ができた。

指先の冷たささえも、冷たさはここにあるが、自分のものではないと感じている。そもそも「自分のもの」とは何だろう。呼吸を例えると分かりやすい。吸う息は自分のものなのか。吐く息は自分のものなのか。この問いと本質は同じである気がする。

 

哲学に深入りすると、訳が分からなくなりそうになるが、向かうべき場所は、今日も変わらず、命を燃やすために生きることであり、真理を探求しようと学ぶことであり、本当の愛や友情を生きるよう努めること。敬天愛人に向かっていくこと。

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