「ショーシャンクの空に」感想。自由とはこの世に生まれた魂の悲哀[569/1000]

自由の輝きは、暗澹たる束縛のなかに眩く光る。

「ショーシャンクの空に」という映画が好きで、何度も見返している。ここに、描かれる壮大なテーマである「自由」は、厳格な規律に縛られる刑務所を背景に燦然と輝くものだ。

 

私は主人公アンディの姿を、イエスと重ねた。旧約の苦悩の世界のなかで、愛の神を説いたイエスのように、アンディは厳格な束縛に皆が希望を捨てるなか、一人「希望」を持ちつづける。権力に楯突いて、囚人にビールを与えるよう交渉し、放送室をジャックしてレコードを監獄全体に流し、囚人たちに自由なひと時を与える。

刑務所内では、神を信じるように、囚人に聖書を配るも、権力に溺れた看守長が、罪の道に走る。これもまた、律法が権力の前に政治利用された、旧約の世界を暗示しているように思われた。

社会の不条理な権力や、規律による厳格な束縛。こうしたものは、民にとっていつも苦悩であるが、ショーシャンクのような壮絶な自由もまた、こうした苦悩があってはじめて生まれたものだ。

 

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「自由」の美しさに涙する今日である。自由は美しい。小鳥のように大空に羽ばたくことを、きっと多くの人間が夢に見る。ただし、大空に羽ばたく自由は鳥かごに捕らわれた鳥にだけ与えられるものだ。自由の前には、いつも束縛がある。

これが、ショーシャンクでいう監獄であり、規律であり、服務であり、聖書への信仰である。社会に対する個人の義務があり、神に対する己の信仰がある。そうしてはじめて、自由の憧れははじまるのだ。

 

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今日のわれわれは、自由だろうか。不自由だというのなら、自由を求めているだろうか。

何十年も懲役したブルックという老人が仮釈放されたとき、彼は外の世界の残酷さに耐えられず、命を絶つ。刑務所内では、誰もが顔を知る教養のある古参であるが、外の世界に出れば、犯罪歴のある老いぼれだ。彼が自死したとき、こんな台詞が登場する。

 

“刑務所を取り囲む塀を、最初は憎む。次第に慣れ、最後には頼るようになる。”

われわれにとっての「塀」とは何だろう。文明か?道徳か?労働か?生活か?安逸か?もしくは、自由の面をした放縦か?

はじめは憎んでいても、次第に慣れ、今では頼りきっているもの。これがなくなれば、死にたくなるほど壮絶な不安感におそわれるもの。そうしたものから、生命を救済した先に自由はある。

 

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隠遁生活をしていた頃、私自身、こう哲学したことがあった。

われわれの魂は個体性がなく、肉体の記憶と結びついて、はじめて自己を認識するのである。つまり、平常、魂は肉体の言いなりとなっており、魂は肉体から自由になることを常に望んでいる。そして、肉体が生きながらも、魂が自由になる状態があるのなら、それは記憶喪失のときだ、と。

 

メキシコでは、太平洋を「記憶のない海」と言うらしい。過去の悲惨と、地上の苦しみのすべてを忘れられたら、人間はどれだけ自由になれるだろうか。肉体をもって、現象界に生きるわれわれ霊体は、苦しみを負う宿命にある。

 

きっと「自由」とは、この世に生まれた魂の悲哀を言うのだろう。この悲哀を背負いながら、必死に死ぬか、必死に生きるかという人間の二つの道が示され、必死に生きようとする人間にだけ、希望が降り注がれるのだ。

この世に生まれ落ちたことが苦しくて、自由を求める魂だからこそ、われわれは、友と鼓舞をし合い、希望を欲するのだ。

 

2024.1.10

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