生きている価値を見失いそうになるとき[570/1000]

だが、彼は起きようとする気配もなく、ぼんやりと天井を眺めていた。横顔は、今まで眠っていたとは信じられないほど疲労を濃く滲ませ、目は背筋が冷たくなるほど虚ろだった。

(中略)

彼は旅に出て四年半になると言っていた。カナダに渡り、アメリカから日本、オーストラリアを経て、インドシナ半島に来た。さらにインドに渡り、中近東を経て、いったんはフランスに帰ったが、すぐに落ち着かなくなり、またインドに舞い戻り、亜大陸をくまなく歩き、さてこれからどうしようかと迷っているところのようだった。

(中略)

私はフランス人の底なし沼のような頽廃に身を浸し切れるほどしたたかではなさそうだった。

 

沢木幸太郎, 「深夜特急」

 

生きてさえいれば価値があると、私は信じたい。なんせ私自身、立派な世間体のない落ちぶれた人間である。ゆえに人一倍、こうした信条にすがりたい願望が強い。だが、生きているだけでは、生きている価値を見失いそうになるのが、人間の複雑な面である。

われわれ人間は、動物とは違う文化的存在であり、動物と同じように自然のまま生き、自然のまま死んでいくことは、ほぼ不可能にちかい。文化的な生き方を失えば、そこには「頽廃」があるのだし、頽廃の沼に沈殿すれば、生きている価値がわからなくなる。

 

今日、「頽廃」は「堕落」と同じく死語になりかけているように感じる。文化とは人間の背骨である。背骨を失えば、われわれは頽廃し、動物的な生き方に近づく。だが、人間の高度な知能をもって、動物としての生に価値を見出すには、あまりにも虚無なのである。

われわれ人間の知性は、神をつくりだした。神あって、生死に問いかけられる意味の重さに耐えてきたのだ。神を失えば、生死に問いかけられる意味の重さに、どうして耐えられよう。科学の筋肉でどうして耐えられよう。

 

生きることの価値が分からなくなり、生の重さに必死に耐える人間は、今日少なくなかろう。歴史をみれば、文化的に価値のある生き方は、そりゃある。頽廃を頽廃とも呼ばない放埓な生き方より、労働の苦渋を耐え忍び、立派な人間として歳を重ねる生き方のほうが、そりゃ文化的存在たる人間として価値がある。

だが、そうと分かっていても、己の頽廃にどうしようもなくなっている人間に、生きることの価値を見出そうとする落ちぶれた人間に、神の慈悲は下らないだろうか。お前の人生は価値がないとばっさり切り捨てるような残酷な言い草ではなく、地上に生まれ落ちた哀しい生命の嘆きが救われる慈悲は下らないだろうか。

赦せ。支離滅裂なことを書いた。同情によって神は滅びたのだ。それでもなお、神の赦しを乞うている。すべての人間が救われるように。

 

2024.1.11

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