忍ぶ恋について/絶対的な聖域を持つ[127/1000]

自分の中に、絶対的な聖域を持つこと。その聖域には誰にも足を踏み入れさせないこと。言うまでもなく、自分から聖域を打ち明けるなんてことはもっての外である。好きだと言葉にするのは簡単であるが、恋の膨張はそこで終わる。ひたすら耐え忍ぶことで凝縮されたエネルギーは、人生のどこかで芸術として花開く。エネルギー保存の法則だ。その時までひたすら耐え忍ぶのだ。

ベートーヴェンの月光はそうして生まれた。ベートーヴェンは、師弟関係にあった14歳年下の少女ジュリエッタに恋をした。しかし、ジュリエッタは伯爵令嬢であり、身分の違いからベートーヴェンの恋は叶わぬものとなった。そうして彼女に捧げるために生まれたのが月光だった。第一楽章から第三楽章まで、聴いてみるとベートーヴェンの忍恋そのものを感じられる。

身分違う恋といえば、シェイクスピアのロミオとジュリエットもそうだった。障害があればあるほど、恋が燃え上がるのはここでも同じだ。東洋と西洋の違いはあれど、芸術や人間の美しさは、忍恋の爆発にある。

 

精神修養 #36 (2h/82h)

「82時間も瞑想をしていると、美しい日本刀のように明敏な意識を呼吸に保つことができるようになった。」と言いたいが、実際は刃こぼれした台所の包丁程度の集中力しかなく、意識はあちこち行ってしまうし、1時間目を閉じて座り続けることもいまだ困難である。最近は特に、書に浸る時間が多いこともあり、心が吸収した分、排泄をする。つまり心がよく喋る。

刀を構える自分がサムライと対峙していて、集中を一瞬でも途切れば、斬り殺されてしまう。そんなリアルな場面を想像すると、集中力がグッと引き上げられ、意識のレベルが最高潮に達するのが分かった。

瞑想に想像を用いることは、雑念である以上、邪道であることは間違いない。しかし、想像で状態を作り出し、その状態で想像を越えていくことは、集中する感覚が薄れつつある最近の自分には必要だったと割り切りたい。また不思議なことに、刀を構える自分を想像し、意識を最高レベルに引き上げた後は、想像に頼らなくとも、静観できる自分がいた。

まるで刀の錆びが洗い落とされたような感覚だった。想像によってグッと集中力を引き上げたことが影響しているのだろうか。

 

自分の中に、絶対的な聖域を持つこと。

自分の気持ちひとつにしても、言葉にできた喜びと、言葉になってしまった悲しみがある。人に伝えられた喜びと、人に伝えてしまった悲しみがある。どこまで言葉にしてよくて、どこから言葉にしちゃいけないのか。自己の聖域のまわりを避けるように、言葉にすることは慎重な作業となった。

多くを語れなくなる。時代に乗っかって私はブログを始めたが、冷静に見つめれば、自分のことばかりをペラペラと話すのは、あまり品の良い行いではないのかもしれない。言葉少なくして行い多くする。ブログ媒体は言葉がすべてである以上、その中枢に大パンチを食らうこととなる。

相変わらず書くことについて、今日も葛藤しかないのであった。

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