スマホなし生活1年、ネットなし生活3ヵ月をして[568/1000]

2023年1月上旬にスマホを手放した。以後10カ月、パソコンだけの生活をつづけてきたが、2023年10月に太陽光からまかなっていた充電バッテリーが故障したことを機に、完全にネットのない生活をはじめることにした。それに伴い、森のなかに作った隠遁小屋で、電気もガスもない生活を3ヵ月おくった。

 

ネットから切り離された3ヵ月の森の生活は、私の人生においてもっとも幸福な3ヵ月だったと言える。2024年1月、一時的にとはいえ、こうして俗界に戻ってきた。

一つくらいは俗っぽいこと(物質的なこと)も書いてみようと思う。テーマは、「スマホなし生活」「ネットなし生活」について。電脳空間にエネルギーを吸われることを疑問視し、電脳空間から距離を置きたいと願う人間がいるのなら、何かの助けになることを願う。

 

スマホなし、ネットなし生活をする理由

電脳空間が人類にもたらした「豊かさ」を私ごときが語り尽くすことはできない。

 

しかし私は、電脳空間によって忘れられていく「貧しさ」のなかに、ほんとうの豊かさを見つけようとする古い人間である。電脳空間の「便利」さに、埋没していく「生命の悲哀」に耐えられない人間である。

まわりくどい言い方をやめれば、私は生命を生かすために、スマホを手放すことにした。生命を死なせるために、ネットを断絶した。これらはすべて、本能の声にしたがって決めたことである。

 

私自身、デジタルネイティブと言われる世代であり、テレビを見ないかわりに、ネットに独自の情報網を拡大していった。テレビの及ぼす情報操作を洗脳的だと辟易し、ネットメディアに心酔した時期もある。

しかし、今はこれと似た感覚を、電脳空間そのもの対しておぼえる。かつて、テレビから離脱したように、今度は、電脳空間から離脱する。

 

情報操作に憤怒する人間は少なくないが、魂が失われることに、私は悲憤をおぼえる。

読書の慣習が失われる今日をみれば、少しは説得力が増すだろう。読書とは、人間の文化である。文化とは人間の魂だ。読書が大事だという人間はごまんといるが、じっさいに読書を身に着ける人間はまれである。ネットの「便利」と「安逸」に比べれば、「重くて」「苦しい」読書は、ブラウジングに取って代わられる。

 

真に人間の尊厳を重んずることとは、物が便利に満ちることではなく、文化と魂と誇りに雄々しくあることだと信じる。ここに人道をみる。だから今日における真の豊かさとは、貧しさである。これが私の人間観のざっくりとした大元である。スマホを手放し、ネットのない生き方は、ここから発している。

 

スマホなし生活をはじめる前

スマホを手放す前の生活は、悲惨であった。典型的な依存状態だ。

依存とは、脳髄の衰弱により、己の意志ではどうにもならなくなることをいう。脳髄の衰弱はどうして起こるのだろう?脳髄の衰弱によって、益する人間がいるのだろうか?

虚飾に満ち、実態をごまかした空虚なものが、電脳空間にはいたるところに転がっている。彼らは慰みとなるが、慰み以上のものとはならない。つまり、われわれの魂の問題、換言すれば、胸のうちにポカリと空いた空洞に立ち向かわせてくれるものにはなりえない。

 

それを自覚した日、スマホを海に投げようと思った。だが、脳髄の衰弱により、投げ出す力も絞り出せないのだから、ほんとうに情けないかぎりであった。人間の尊厳を前に、安逸に屈してしまったのだ。

文明に埋もれる生命の野性を取り戻すことを、生命救済と私は定義する。同じく、時代の道徳と物質に埋没する魂を救い出すことを、魂の救済と定義する。私は脳髄の力を少しずつ取り戻し、生命救済と、魂の救済に向かった。そして、なんとかスマホを手放すことに成功した。

 

スマホなし、ネットなし生活の実際

実際面を少し書きたい。

遠出するときは、google mapを使う代わりに、あらかじめ地図を見てルートを紙に書き記した。国道何号線を走るとか、何号線で曲がるとか。そこまで大きな外出をしなかったこともあり、これでどうにかなった。たとえ間違えたり、分からなくなったりすれば、迷えばいいのだ。それで死ぬこともあるまい。そう思えば、これは大した問題ではなかった。

 

連絡手段であるlineは、週に1回しか開かないこともある。昔の人達が、手紙を温めて、のんびりやり取りをしていたことを思えば、現代の交信が速いだけである。私にとってはこのくらいの交信ペースのほうが、心臓の鼓動に合っている。また、ここでも同じように、仮に、すぐに連絡を取れなかったとしても、それで死ぬことはあるまい。

 

フルリモートの仕事をしていた頃は、パソコンを使った。しかし、仕事をやめて使わなくなれば、ネットは必ずしも必要ではなくなった。唯一、当ブログに1000日間連続で投稿する試みだけが、心残りであったが、ネットに投稿する代わりに、手元のノートに書き記すことにした。

 

森で生活しているときは、音楽に飢えた。ベートーヴェンの「月光」が聴きたくて仕方がなかったが、ネットがなければ音楽も聴けない今日だ。私は暖炉の前で目を閉じ、ベートーヴェンの「月光」を頭のなかで再生した。美しい旋律に胸奥は洗われて、私は涙した。

人間は耳を介さずとも、音楽を「聴ける」ことを知った。また、これほどまでに音楽を「聴いている」と感じた体験もはじめてであった。

 

同じように、映画が観たいと思ったときも、目を閉じてワンシーンを思い浮かべた。「ショーシャンクの空に」で、仲間たちとビールを飲み、屋上の風に吹かれているシーンはその一つだ。

ここでも、これほど一つの場面から、溢れ出る心情を味わい尽くせていると感じたこともはじめてであった。

 

総じて、人間の脳髄の力を思い知った。想像力は底知れず、目の前にないものも、目の前に現出させることができた。過去の追想が「現在」に呼び覚まされるかぎり、過去は「現在」に生きるという、時間の哲学にも通ずるものがある。

何が言いたいかといえば、私の生命は不便さのなかに奮い立ち、かつて衰弱した脳髄は着実に力を取り戻す感覚をおぼえていった。

 

スマホなし、ネットなしの代わりの読書

とにかく書物を読んだ。流行りものの本は、いっさい読まなかった。

これは、私がネットのない生活に足を踏み入れたことが、生命と魂の救済に端を発していたことに起因する。時代を旅する書物が、なぜ時代を旅できるかといえば、永遠を生きる魂だからである。書物には、人類の魂が眠り、書物にぶつかることが、己に魂を養う習慣となる。

 

「新約聖書」からはじまり、ドストエフスキー、サマセットモーム、トーマスマン、ニーチェ、ランボオなど、主に西洋文学を読んだ。日本の文学は、葉隠からはじまり、芥川龍之介、太宰治、三島由紀夫など、時代の代表的な人物を読んだ。

私のような凡人が、彼の偉大な魂を掴むには、何度も繰り返し読み込む必要がある。ネットのない生活に、不足感をおぼえることは次第になくなっていった。退屈することもなくなった。

人類の歴史をみれば、読み切れないほどの魅力的な書物が地球上には溢れている。

 

スマホやネットの便利で安逸な生活を捨てることは、同時に、魂をもって人生にぶつかる覚悟を醸成していく。私自身、読書が血肉になったとはじめて感じたのは、完全にネットを断絶した隠遁生活からだった。

 

スマホからもネットからも解放された生活

当記事に関心をもつ方々は、自然と素朴な暮らしに関心を抱いているだろう。

「素朴」とは、私が隠遁生活で取り上げた最重要キーワードのひとつである。なぜなら、素朴な慣習のなかに、生命の力は叩き上げられていくからだ。逆に言えば、技巧的な慣習、虚飾に満ちた慣習は、時に生命を無力化していく。

脳髄の衰弱によって衰えていくものは、意志の力だけではない。知性の力も、感情の力も、脳髄の上に機能する、あらゆる人間的なものが衰えていく。

 

森で生活していた間、書物を読まない時間は、森を散歩したり、寝そべって空を見上げたりした。このあたりの隠遁生活の模様は、別の記事にも取り上げている。スマホもネットも使えないのだから、自ずと素朴な慣習だけに生活は築き上げられていく。

 

コーヒーを飲むこと、陽に当たること、炎に手をかざすこと、川の水で洗いものをすること、こうした素朴な慣習は、「力の原理」「死の原理」によって機能する。換言すれば、これが生命燃焼の原理である。

対して、現代の物質生活の「不自然さ」とは、「無気力の原理」「生の原理」によるものである。生命燃焼と合致しないものを、われわれは「不自然」とよぶ。

 

われわれは死に向かっていく存在だ。「生」とは、死に向かった結果、現象界たる時間と空間に生じる現象にすぎず、生物は「死の原理」によって死に向かっていくのである。私自身、隠遁生活にこの上ない幸福を感じられたのも、「死の原理」においてである。生きるものの悲哀を感じながら、今日を生きられていることが、とてつもない奇跡に感じられたのだ。

 

スマホなし、ネットなし生活を3ヵ月して

スマホもネットも、なくても生きていけることを知った。それ以上に、スマホもネットもない暮らしのこの上ない幸福を、私はいまだ忘れることができずにいるほどだ。

隠遁生活をいったん切り上げて、ネットのある文明生活に戻るとき、私は一つの誓いを立てた。それは、「素朴な慣習を、技巧的・虚飾な慣習から守ること」である。これは換言すれば、文化と魂を俗物から守ることだ。

私の関心は、最初から最後まで、この一点である。スマホを手放すか、ネットを扱うかうんぬんは、第二義である。そして少なくとも今は、私自身の力量を顧みて、無いほうが自分のためになると、相変わらず古くさい結論を出している。

 

スマホなし、ネットなし生活に踏み切る方々へ

もし、スマホを手放した生活や、ネットのない暮らしに関心をもっている方がいるのなら、私は大いに背中を押したい。

かつての私のように、怖ろしい依存状態にあれば、不安も怖さもあろうが、素朴な慣習のなかで脳髄は力を取り戻し、肚の底に力を感じるようになっていくはずだ。

素朴な慣習と無邪気な欲望を、きっと愛せる日が来よう。

 

2024.1.9

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です