この脆い生命でギリギリの戦いをしている[278/1000]

仕事をしている。好きことを仕事をしているわけではない。むしろ、今の仕事は、好きとは無縁のことをしていて、向いてもいないと思う。

それでも仕事をするのは、この生命を、文明にぶつけるためである。文明にぶつかって、文明の中で、生命的に苦しむためである。今の私に、義があるとすれば、「魂の救済」しかない。便利な世になることも、娯楽の世になることも、本当に重要かと問われれば、もう十分すぎると思うし、人間に本当に価値があることは、魂を救済し、魂の美学に生きることの他にないと感じている。

文明の苦しみの中に、生命を投げ入れて、そこから魂を救済する。仕事をする上での地上的な目標は、別にあるかもしれないけど、宇宙的な使命はこれだと日々感じている。

 

文明に負ければ、文明から生命が弾かれて、世界から生命が孤立する。

かつて私は、引きこもりのニートだった時期が長いことある。教員を挫折し、義(仕事)を失ったことによるダメージはかなり大きく、毎日、虚無感に潰されていた。これは男だから、なおさらのことだったかもしれない。義によって、友や、社会と繋がっていて、義によってのみ、前に進むことが出来た。

義を失ったとき、人生は前に進まなくなる。義は人生の道であって、この道を歩むことで、生命は燃焼していくのだと思う。働いていなかった当時、私にあったのは、生命が止まっている感覚だけで、働かないでも生命が躍動している人は、その人なりの義と美学を持っていて、その人なりの文明へのぶつかり方をしている。

 

淡々と書いているけれど、今にも私は、文明に負けそうな、ギリギリの戦いをしている。私はこの生命が脆いことを自覚する。

昨晩、執行草舟氏の「不合理を愛せ」という言葉を思い出した。文明は、理不尽なこと、不合理なことに覆われている。文明に負けそうになるときや、弾かれそうになるときは、十中八九、理不尽なことに嘆いている。この不合理を愛せ!と言う。苦しみを愛せ!と言う。

 

すぐに、ドストエフスキー「罪と罰」のとある場面を思い出した。ラスコーリニコフがソーニャの足に接吻し、ソーニャが狂気におののくところ、ラスコーリニコフは、「君に接吻したんじゃない、この世のすべての苦しみに接吻したのだ」みたいなことを言う。

苦しみに接吻することも、苦しいことのように思える。しかし、この場合、ただ不合理に虐げられるのではなく、苦しみの中にも、涙は流せるのかもしれない。涙を流せさえすれば、苦しみは永遠へと還っていく。だからきっとこれでいいのかもしれない。

 

戦いはつづく…!

ぶつかれ!そして生命よ、生きろ!!!!!!

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