己が負い目のまわりをめぐれ![318/1000]

まどろみの中、朝から雲一つない爽やかな青空を眺めていると、悩みとはいっさい無縁の世界が広がる。小鳥たちは人間のような休みがない代わりに、いっさいの悩みも持たず、陽ざしの祝福を受けて嬉しそうに歌っている。こうした爽やかで気持ちの良い風が吹く青空の下では、どんな罰当たりなことを嘆いても赦される気がする。

 

何が人間だ。何が万物の霊長だ。神よ、なぜ人間として我を産み落とした。この苦悩も、不安も、悩みも、気だるさも、罪の意識も人間として生まれてこなければ無縁であった。せっかく与えてもらった人間の生を、己はこんなにも台無しにしている。すぐそこで、罪を知らない健気な小鳥が、チュンチュンと気持ちよく鳴いている。アイツの方がよほど人間をやるに相応しかったんじゃないのか。それともアイツは、健気なフリをしているだけで、人間の傲慢さを帯びたら、実はとんでもないヤツなんだろうか。

 

道徳が崩壊し、生きているだけで素晴らしい世界になりつつあるが、我はそれを否定する。こんな堕落した生が無条件に素晴らしいものか。傲慢だらけで快楽のとりことなった生をどうして尊いと言えようか。だが、毎日のように己を拒絶し裁きつづけることにも、いい加減ヘトヘトである。己は決して、綺麗な人間ではない。草が地上に伸びるとき、同時に地下にも根を張るように、美しい言葉を見繕うほど、内に汚いものが掃き溜められていくようだ。掃き溜められた汚さは、自制を失うとき吐き出される。ここに堕落となって新たな罪を生まれるが、この罪は誰にも悟られないように、ひっそり自分だけの秘密として隠されるのだ。気高く美しく生きているように見える人間にも、実は裏では隠された罪の意識にさいなまれているかもしれない。もしそうなら、美しさを極めた人間ほど、とてつもなく汚い人間かもしれない。道徳を捨てて汚さを肯定し、罪の意識から自由になる輩もいるが、やはりそうした行いは、魂なき恥知らずではないか。道徳も罪の意識も、うっとうしくて仕方がないが、これを失ってしまったらもはや人間ではなくなってしまう。

 

ファウストを読んで以来、ゲーテの言葉に触れたいと思うようになった。

急がず、

しかし、休まず、

人はみな

己が負い目のまわりをめぐれ!

ゲーテ, 「ゲーテ詩集」(新潮文庫)

 

こうして毎日言葉を書くのは、己の負い目のまわりをめぐっているようなものだと感じる。罪の意識をどう対処しようか、同じところをグルグルとまわって、言葉の上で自己を拒絶しながら、同時に赦しを得るのだ。お前はダメな人間だと言っていれば、ある程度は罪の苦痛から逃れることができる。それは、言葉を綴るという行為全体をとおしてみれば、運命が丸ごと包まれるような感覚を得るからである。この感覚によってのみ、人間の宿命であり、逃れることのできない道徳や罪の意識に、打ち克つ道をみつけるのだ。

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