我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか[317/1000]

社会はゴールデンウィークに突入した。社会から半分堕ちている私にはゴールデンウィークがなく、いつものように言葉を残し、いつものように働かねばならない。1000日投稿をはじめた時点で、向こう1000日間の労働は覚悟した。当初はそれがとても怖ろしかったが、自分を生命的に束縛できる労働を欲していた。お金にはならない。読む人もほとんどいない。それでも、この労働で自己を束縛する価値をみいだすのは、現世を超えて、魂に通ずると信じるからである。いくら儲かるとか、何人に読まれるとか、物質や数量は問題ではない。誰にも評価されなくて、誰にも読まれなかったとしても、永遠の憧れに向かうことができるならば、どんな労働にも価値がある。

 

毎日読んでくださる修行者のような方もいるようだけれど、同じ理由ではないか。得をしないことを承知の上で、むしろ損をすることを知っていて、永遠に憧れる同朋として慈悲深く読んでくださっていると想像する。しかし、何度もいうように、私はこれが複雑な心境でもある。同朋の存在を大変嬉しく思いながら、私のような堕落者の言葉など真に受けず、ドストエフスキーやモームを読む方が天と地の差ほど、魂にとって価値ある時間になると思うのだ。自分の言葉を読むなというのは少し寂しいが、それでも私自身、こうした文学に救われた人間だから、是非読んでほしいと思うのだ。

これをしていたら安心、というものが社会にはあるが生命にはない。金が土になれば安心して休めるのが社会であるが、生命的には金も土もなく、新しい1日が始まるだけである。生きているかぎり、常に不安にさらされ、懸命に生きなければならないのが生命である。

私は度々、自分が何のために生きているのか見失う。そのトリガーは分からないけれども、社会の安心に浸かり、生命的な自覚を失ったときに起こりうるものだと感じている。

これは、モーム「月と六ペンス」に登場する、ストリックランドという画家のモデルとなった、ポール・ゴーギャンが描いた作品で、タイトルは「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」という。私は絵を語れるような博識な人間ではないが、生命の自覚を叩き呼び醒まされるような感覚を得る。言葉を超えるものを言葉にできない。生きることを見失うときは、ここに救われないか。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です