自分には価値がないと思うことが既に自惚れだ。[165/1000]

それぞれの人間がそれぞれの宿命の上に存在し、それぞれの運命を生きている。

誰一人として同じものを抱える人間など存在しないのに、どうして他人と比べられようか。

 

誰かと比較して「私など価値のない存在だ」と思うとき、いくら自分に優しい言葉をかけても何の解決にもならないことを知った。なぜならば、優しい言葉をかけて自分を救ったとしても、「自分」を大きくすることを助長するにすぎず、結局はその場しのぎにしかならないからだ。

その場しのぎは無責任である。満たし満たされ、肥大化した自分はいい気分になって救われた気になるが、ますます傲慢の一途を辿るように思う。しかし世を見渡せば、無責任なものに覆い尽くされている。聞こえの良い言葉で誘惑し、自分をインスタントに満たせるもので溢れ、「自分」が徹底的に飼いならされている。(飼いならせなくなっているともいえる)

 

 

私など価値のない存在だと思うことが、既に自惚れではないだろうか。そう思うことが、そもそも傲慢である。

自分の宿命を見ようともせず、見える部分だけを比較しようとする。本当は、そんな都合のいい自分の浅ましさを、恥じて戒めるべきではないのか。自分にかける言葉は、寄り添うような優しい言葉ではなく、「自惚れるな」という一喝ではないのか。この一喝にこそ、愛があるのではないのか。

 

自分を戒めようものなら、自分が可哀想だという。自分に喝を入れ、自己憐憫におちいるなら、まだ自惚れている証拠であろう。神となった絶対的な座から、自分を引きずり降ろさないかぎりは、世界は常に「自分」の都合のいい方向に捻じ曲げられていく。葉隠が「生きるほうに理がつくべし」というように、「自分」という存在は真っ当な理由の面をした言い訳を無限に生み出す。

 

黒澤明の「羅生門」を思い出している。芥川龍之介の「藪の中」を原作とした映画。

武士が一人死んだ事件をきっかけに、これにかかわった人物3人+1人(傍観者)の供述が順に行われていく。すべての供述は同じ話とは思えないほど筋書から変わってしまう。卑怯な真似はしたくなかったから決闘を挑んだとか、恥を感じて池に投身して死のうと思ったとか、すべての話はその人物にとって都合のいいように捻じ曲げれる。

語り手も最後に、自分が見たことを、真実であるかのような供述をするが、これも結局は「自分」に都合よく書き替えられたものであり、真相は藪の中のまま映画は幕を閉じる。

 

いつの時も人間は「自分」と向き合う運命にあったかもしれない。

それがいちばん美しい形であったのが、武士道や騎士道だったのではないだろうか。

 

精神修養 #75 (2h/158h)

・自分を相手にしないことを心掛けても、自分を相手にすることがすっかり染みついている。

・何気なく人に放った言葉の中に、後々そこに「自分」を見つければ、言葉の不純さにどうしようもなく恥ずかしくなる。

・自分を相手にしないように心がけても、そこに自分しかいなければ、自分を相手にせざるを得なくなる。主に恋焦がれなければ、自己中心性から抜け出すことはできないのかもしれない。

・西郷隆盛は、「天を相手にせよ。人を相手にするな。」と言った。金剛般若経には「かの人たちは、わたしを見ないのだ。…..法によって見られるべきだ」と書かれている。

 

[夕の瞑想]

・働き者のフリをして不安に耐え切れないだけではないか。自分が可愛くて、こだわりすぎているだけではないか。

・「これから先どうやって生きていこう」などと威張るなよ。手前のことを考える時間を卑しく思え。

・仕合せの瞬間を恋焦がれ、魂ごと歓喜せよ。仕合せの瞬間を誇りに思え。自分は自分を見捨てることがあっても、天は誰も見捨てない。

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