元気がないなら元気がないなりに生きればいいんだよ[68/1000]

秋田県にしめ町にいる。天気は曇天だが、空気は冷たく、澄んでいて気持ちがいい。

あまりの気持ちよさに、朝から身体を動かしたくなって、1時間ほど近くを散歩した。その後、身体がもう少し動きたがっていたので、バービージャンプをして心臓をバクバクさせた。

 

道中、スズムシの鳴き声があまりにも綺麗で、腰を下ろして、じっと耳を傾けていた。

シャリンシャリンと、まるで神子さんが神楽の鈴を振っているような音色で、目を閉じて、つい聞き惚れていると、寝落ちしそうになった。

 

虫を苦手とする人は多いが、虫の美しさを知らない人も多い。

鈴のような美しい音が、自然の生き物から発せられる。そんな美しい生き物が、世界には存在している。私はそんな事実に朝から感動している。

 

 

こうして車で寝起きするようになって、いいと思うことは、布団から一歩動いてしまえば、外に出られるということだ。

元気がないときは、散歩がいいと分かっていても、外に散歩しにいく元気すらないというのが実情だ。笑ったら元気になると分かっていても、笑う元気すらない。

 

その点、車での寝起きは、元気がなくとも、布団から一歩出れば、散歩をはじめられる。

良くも悪くも、内と外の境界線はかぎりなく0に近い。その分、土地の影響はモロに受けやすいが、外に出ることの労力はかからない。

 

建築は発達して、家の壁は随分と分厚く、頑丈になって、音まで遮断できるようになった。厚い壁は安心安全で快適だ。

しかし、安心に慢心して、全面的に身を委ねれば、沼にハマって、家から出られなくなってしまうことも多い。

 

元気がないときは、内にこもりたくなるが、それだけでは破滅する。

特に、天地との繋がりを絶たれて元気をなくしているときは、逆に自然と自分を隔てている壁を取っ払うことも必要だ。

 

私は自然の中では、よく上裸になる。服も自分と自然を隔てる壁の1つだ。

服をちゃんと着て、身体を温めることも必要だし、服がなくては社会に生きることもできない。

 

しかし、さらされるべきところでは、ちゃんとさらされる。自然の中では、なるべく上裸でいたい。

全身で日光を浴びると気持ちがいい。いい空気には、多くの地肌で触れていたほうが、自然のエネルギーをたくさん吸収できる気がする。

 

 

壁で自分を囲って守ることも必要だが、守るだけじゃ半分だと思う。

もう半分は、壁を取っ払うこと。雨に打たれて、風に吹かれて、自然に剥き出しになって、世界と繋がること。

命を守りながら、時に命をさらすことで、生き物は自然らしく、たくましく生きていくのだと思う。

 

昨日は雨。今朝は曇天。ソーラーパネルで充電ができなくなってしまい、車で移動して電気をためることにした。

運転しながら、鏡に映るしけた面の自分を見て、こんな状態で人に会いに行って大丈夫か?と不安になる。

 

しかし、日本海を左手に国道を突っ走りながら、ああ俺はいま、人生の真ん中を生きているとも感じた。

あるのは今だけ。もしいまここに元気のない自分がいるなら、元気のない自分が、今の私のすべてだ。

 

今の自分に比較対象は何もない。今ここの私しか存在しないのだから、今の自分は絶対的な存在として、絶対的な状態として、ここに存在している。

だから、元気だろうと、元気じゃなかろうと、本当はどうでもいいのだ。

 

どうでもいいと言いながら、本当は元気でいれたらいいなと思うけど、ただ状態がそのまま存在しているのだから、そこに何らかの価値判断を加える必要なんてないと感じる。

 

 

そして不思議なことに、仮に元気がなかったとしても、良いとか悪いとかの価値判断をしなければ、元気がない状態が自分を苦しめることはなくなる。

ただそのまま、元気がないなりに、できることをやる。ただそのまま、元気がないなりに、今日を生きる。

 

それでいいんじゃないかって私は思う。自己嫌悪に陥ったり、自分を卑下する必要なんて、一切ない。

元気がないなら、元気がないなりに、ただ生きよう。

 

じゃ今日はここまで!また明日!

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