夢と欲望。月と光。[403/1000]

夢は永遠につづく憧れである。夢を地上に物質化することを”夢を叶える”、”夢を実現する”というが、人間がほんとうに月を手にすることはなく、月光を浴びつづけることしかできないのである。浴びても浴びても、歩みをすすめることだけが魂の存在意義であり、月光の痛みからは逃れられることができない。私がベートーヴェンの「月光」と人生をともにするのは、偶然ではない。人間の運命と、憧れと、悲哀と、苦悩と、残酷と、美しさのすべてをそこに感じるのである。第一楽章の永遠への憧れ、第二楽章の忍ぶ恋、第三楽章の運命の烈しさ。今だから言えるが、昨冬の諏訪湖の孤独を生き抜けたのは、月光のおかげであった。湖の彼方に伸びていく憧れの放射を感じたこのときから、恋というものが実感値として理解できるようになったのだ。

 

森に家をつくりそこで暮らすことは、私にとってささやかな夢であった。そこで孤独と静寂に包まれ、さらなる宇宙の深みに到達せんとするものである。物質は夢のふりをしているが、それ自体は目的となることはなく、永遠へ向かう手段にすぎない。もし物質そのものが夢の果てとなれば、そこで放射は途切れ、虚無に出会う。物質主義に汚染されすぎて、そうして苦しむ人間は少なくない。宝くじにあたって大金持ちになっても、かえって欲望はふくらみ、魂は物質にとらわれてしまうのである。ほんとうの夢は言葉にすらならない。純粋な憧れとして、青春として存在する。人間の語る”夢”はその低次なものにすぎない。実際、私の森に家で暮らすことの夢も、欲望と何がちがうのかと問われれば、「欲望である」というほうが正確かもしれない。隠者となった鴨長明は晩年、仏様からみれば自分は俗世の人間とちっとも変わらないと言った。神や仏から見れば、人間が美化する夢も、俗物と変わらないのではないかと、そんなことを思うのである。

 

私がつくる森の家は簡素であるためか、あまりにもすんなりと形になっていく。あれだけ思い焦がれていたのに、なんだかあっけなさも感じるのである。しかし、どちらにせよ道はつづき、そこに月光は降りつづける。月光が枯れ、闇夜になることを怖れているかもしれないが、仮にそんな日があったとしても、たまたま雲が覆っているだけである。人間ごときがそんな心配をしなくてもいいのである。

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