仕事を辞めるか辞めないか②[334/1000]

仕事をやめるか、やめないか。迷うのは、どちらの選択も真実を含んでいるからだ。やめるも正しく、やめないも正しい。真実を求める心が、どちらにも正義を与えるから、迷う。

勢力が一方的である場合は楽である。己に打ち克つと同時に、もう一方の己を打ち負かし、決断は下される。しかし、勢力が均衡している場合は、裁判官のように第三者の立場となって、どちらがより真実を多く含むか、冷静に判断しようとする。

葉隠の言葉に、迷ったら早く死ぬ方を選べ、というものがある。私はこの言葉に従いたいが、ここでわからなくなるのが、「死ぬ」が何を指すのかということだ。どちらを選択しても、肉体が刀で斬られることはないが、どちらにも死は存在する。

 

本当は、既に答えをもっていて、それが合理化できないだけだろうか。やめるか、やめないか、迷う時点で、自分はやめたいのである。しかし、やめることは、どう転んでも立派にはなりえない。つづけるほうがいいに決まってる。汗水垂らして人のために働くことは善である。忍耐も勤労も規律も美徳である。一方、やめることは堕落であり、不義であり、怠惰であり、エゴであり、弱さであり、孤立であり、悪である。

少しでも罪の意識をやわらげるために、やめることを正当化しようとしているが、それが見つからない。だから迷いが生じているだけだろうか。

 

 

それでも、私がやめる方向に流れるのは、堕ちるところまで堕ちろという、坂口安吾の言葉の影響が大きい。ここに、生命の好奇心がある。

こんな風に例えられないか。果物を探しに木の頂を目指すチンパンジーの群れの一匹が、何かの拍子で滑り落ち、あやうく地に落ちそうなところを、間一髪のところで木の枝につかまる。木の枝にぶらさがるチンパンジーは、ふと下を見ると、奈落の穴を見てしまう。そして、こう思う。あの奈落の底には何があるのかと。

登らなければいけないことを知りながら、奈落の底のことが気がかりだ。奈落を忘れようとして、木の上に登ろうともしたが、やっぱり奈落の底が心にいつまでもひっかかり、結局同じところまで降りてきて、同じところから奈落を見下ろしてしまう。

一度堕ちた生命には、堕ちることへの好奇心が宿る。この生命の好奇心を満たさないかぎり、天に向くことはないのではないか。

 

やめることは悪である。だから、やめるのなら、悪を引き連れてやめねばならん。堕ちることの責任は、苦しむことで取らねばならん。悪を選んだのに、善人と同じような幸福や、心の穏やかさなど要求することはできない。働かない人間はクズだという罪悪感にさいなまれ、孤立に絶望するなら叫ぶしかない。安吾は、”正しく堕ちろ”というが、私はこの言葉の意味がまだ分からない。正しい堕落とは何なのか。

 

運命だけには忠実なしもべでありたい。どちらを選ぶにせよ、愚かである。つづけられないことは弱く、堕ちきれないことも弱い。つづけることは強く、堕ちることも強い。あとはなるようにしかならないと思うのだ。もう最後は、運命に身を委ねる。

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