真の優しさに憧れて[312/1000]

穏やかな春の陽の祝福を受けながら、緑いっぱいの丘を歩いていれば、どんな人間だって幸せを感じるにちがいない。青年は恋の予感に燃えて、老人は野に咲く花に永遠を見つめる。幸せは気まぐれな風に乗って、予期せぬ形で訪れては、知らぬままに過ぎ去っていく。そうして風は、次の人間の心を訪れ、胸中を爽やかに駆け抜けるのだ。鬱屈とした感情を、別の鬱屈によって抗おうとする愚かな人間など、大地にとっては赤子のようだ。風がそこに爽快の一点を付与すると、どんな人間もみるみる快闊になっていく。太陽と、空に浮かぶ雲と、緑色の大地と、野に咲く花々と、風と一緒になって、同じ世界を祝福するのだ。祭りはいつだって、催す側のほうが愉しいのさ。

 

不幸な人間にはっきり申そう。自ら不幸を選んでいるのだと。不幸によって生じる炎で、成し遂げたい何かがある。幸せになったら消えてしまうこの炎。不幸になることよりも、消えることのほうがずっと怖ろしい。メラメラ燃えるその炎は、復讐の血を燃やす。見返したい何かがある。赦せない何かがある。後戻りできない何かがある。貫きたい何かがある。渾身の一撃を食らわせる残酷を夢に見て、君の目には深い悲しみが宿るのだ。

幸せな風が爽やかに吹けば、炎はゆらゆらと揺れ、危うく消えそうになる。果たしてこれは、神のご慈悲か、それとも悪魔の仕業か。メフィストフェレスは自分をこう言った。「常に悪を欲し、常に善を為す、あの力の一部分」だと。燭台の火が消えそうになるのを、悪魔はいつもいい顔をする。だけども己は人間だ。幸せは願うも、悪魔に魂を売ることはできない。不幸な人間は、他に為すすべなく、幸せもろとも悪魔を切り裂かざるをえないのだ。

人を巻き添えにすることもある。自分の痛みなら問題ないが、人を不幸にする権利などあるのだろうか。つまらない優しさが人間を孤立させる。こんなもの本当の優しさではないことくらい自分では分かっているのだ。己を誤魔化し、正当化したところで、真の優しさへの憧れが消えることはない。

 

真の優しさに向かうのだ。きっとそれは、幸せもろとも切り裂いて、人を不幸に巻き込んでも、フッと笑みをこぼしたと思ったら、爽やかな風が辺り一帯を吹き抜けるような、雄々しいものじゃないのかな。

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