癒しについて。人間を癒すものに神がある[313/1000]

自然が人間を癒すのではない。自然の中にある神が人間を癒すのだ。大海原に竜を見て、波打つ音に調和を聴き、木の葉が擦れて、小鳥がさえずる内に、森の精霊を感じるのだ。癒しとは、自分よりも大きな存在を感じ、肥大化した自己を鎮める行為である。

森を買うことはできる。所有することもできる。しかし、自然を守る人間は、森の番人となるのであり、森の主となるわけではない。人間は勝手に森を所有したと思い込むが、これ以上の傲慢はない。木を伐採するのは、人工的に植林され、窮屈で陰鬱な針葉樹の森に、光を注ぐためである。倒木を片付け、草をはねるのは、湿っぽくなった土に、春の風を吹き込むためだ。信仰をもつ人間は、授かった肉体で労働し、万物の霊長として、あらゆる動物が棲みやすい森にすべく、神のために働くのである。

 

先月、長野県である森に出会った。ひと目見たときから、この森に惹かれ、地元の不動産屋のお爺さんに案内していただいた後も、2週間毎日訪れるくらい、この森に惹かれていた。昔に植林されたスギやマツがほうったらかしになっていて、嵐の影響で折れた木もある。胸高直径50cmはあろう太い倒木が、別の木に倒れかかっていて、不安定な状態のまま絶妙な均衡を保っている。間伐は行われておらず、木々は1mくらいの間隔でそびえ立つ。わずかな隙間からは光が縫うように差し込んで、大地からは小さな広葉樹の生命が力強く芽生えている。そして、葉の隙間から注がれる爽やかな緑の光が、森に棲む動物たちを愉しませようとしている。

 

人間の”所有”への罪は、主ではなく管理人とわきまえることで、ある程度は赦してはもらえないだろうか。しかし、そんなことは口だけなら何とでも言える。実際にそこで暮らしたら、天への誓いなど破られ、森の秩序を乱すように傲慢になるかもしれないのが愚かな人間だ。そうなれば、天罰が下らないか。私が木の下敷きとなって死んだら、傲慢な自分に天罰が下ったに違いない。恥を感じたまま死んで、あの世で後悔しよう。必要ならば生かし、不必要なら殺してくれ。自然を愛すとは自然のために死ぬことだ。そんな心持ちで森に仕えれば、少しは心ある人間として生きられるだろうか。

 

自然が人間を癒すのではなく、自然の中にある神が人間を癒す。人間を癒すものを神と呼んでいる。誰かに癒されるときも、その人間の心をつうじて、奥深くにある自然と神に触れているに過ぎない。その誰かも、別の誰かに癒されていて、そうして大元を辿っていくならば、最後にはやっぱり自然と神に到達するのだと思う。重なり合った心がつくる一本の道が神へと通じていて、この道を歩くとき癒しの風に吹かれ、慈悲の雨が降り注ぐのだと思う。

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