生命が真に欲しているものは幸福よりも誇りである[439/1000]

森の家づくりのために仕事をやめて、はや2ヵ月が経つ。仕事のない私には平日も休日も関係なく、ただその日があるだけである。しかし、心なしか土曜や日曜には、普段感じられない静けさがあり、私もまたのんびりとした気分になる。

町から少し離れた森にいるとはいえ、まったく人気のない山のなかにいるわけではないから、ここにもまだ世間の影響が及ぶようである。平和ボケというのも、世間が発する空気の代表的なものであろうが、こうして知らず知らずのうちに外界の奴隷のように生きているのだと改めて思い知る。

 

古今東西、隠者は存在するが、彼らは真理を探究したことはもちろん、世間から距離を置くことで、その眼のにごりを取り除いたのだろう。いっぽう、崇高な武士道や騎士道に生きた人間は、世間に身を置きながらも、その力強さによって現世を突き破り生命を貫いた。

どちらにも共通するものがあり、隠者には静の性質が、武士道には動の性質があるように思う。その眼にうつるのは宇宙の崇高であり、自己の生命を救済してそこへ立ち向かうのである。隠者には賢人が多く、智慧を授かりに会いに行った人間も少なくなかっただろう。しかし、人々がより憧れをもったのは力強く生命を燃やす武士の姿であっただろうと思う。

 

彼らは共に日常を手放した人間である。幸福はいつも日常のなかにあるものだが、彼らにとって日常はたまたま通りすぎることはあっても、そこに落ち着くことはない。幸福な日常を手にするのは、いつも当たり前に暮らす民であり、彼らの幸福は、国のために戦う人間がいたからこそ生まれたものだろう。また民は民とて、魂を失っていない時代には、誇りをもっていたにちがいない。町のために働き、家族を持ち、子を躾け、社会の役に立つ人間になるように育てることの宇宙的使命を、幸福のなかに見つけていたことだろう。

 

差別はいけないことであるが、今日の非差別意識によって失われたものもある。天皇と臣民、士農工商のように、日本の場合はどちらかというと、差別による精神的な苦痛があったというよりも、身分を弁えることによって、そこで全力を尽くし、誇りを得ていたように思う。

全員が平等で自由となった今は、良くも悪くも自分の居場所や宿命が分からなくなり、誇りをもちにくくなったように思う。そうした人たちに受け入れられるのが、「やりたいことをしろ」という言葉であるが、心のどこかではほんとうにこれでいいのかと疑念が残るものである。

生命が欲しているものは、幸福よりも誇りなのだ。誇りはいつも宇宙と繋がるものである。自己の宿命を認識し、その上に立ち戦うことで、魂は深い充足を得るのである。それだけを真に欲している。

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