善人であるよりも悪人でありたい。[302/1000]

昨晩、坂口恭平さんの「独立国家のつくりかた」という本を読み返し、改めて感銘を受ける。この世界にはいくつものレイヤーが存在し、我々は複数のレイヤーを同時に生きている。例えば、学校にも「学校社会」というレイヤーと「放課後社会」の2つのレイヤーがあった。学校のテストの成績が悪くて落ちこぼれる人間でも、放課後では遊び上手で誰よりも人気者だということが現実に起こりうる。これは、あるレイヤーでは評価されない人間も、別のレイヤーでは評価される存在になれることを物語る。

 

私は自分を堕落した悪人だと思うのは、”学校社会”においてである。学校でいい成績を取ることの延長線上に、一人前に働くこと、所帯を持つこと、家を持つことを立派とする道がある。この道を踏み外した人間は、”学校社会”から堕落したのであり、堕落に耐え切れなくなった人間は、独自のレイヤーを見出さざるをえないのだと思う。”学校社会”が世界のすべてだとしか思えないとき、悲しいことに行き場を失って命を絶つことが現実に起きていると思う。

 

山を開拓して、自分で家を建てて、自給自足の暮らしをする人間も世界にはいる。彼らから大きな自由を感じるのは、”学校社会”のレイヤーから抜け出し、自分独自のレイヤーに生きているからであろう。自分で家を建て、自分で畑を耕し、動物と一緒に、山の中で暮らす。”学校社会”から見れば、彼らは堕落している。しかし、彼らにとっては、自然界で生きるための働きをしているのであって決して堕落はしていない。

 

私は長いこと森に家を建てるための山林を探している。この一週間は、毎日ある森に足を運び、ここにしようかと、いよいよ覚悟を固めようとしていた。しかし、私がこの森を評価していたのは、”学校社会”からだったかもしれないと、胸の奥にある最後の不安が、今朝、別の山林を探していたら、明らかになった。それは、ある不動産会社のこんな書き込みだった。

「ここは野生です!安心とか平等とか安全という言葉の好きな人はこの物件を問い合わせしないでください。山や自然の中では自己責任です。何からも守られていませんが動物も小鳥も人も幸せそうに生きています。」

私はまだこの山林を見ていないけれど、これを書いた担当者が好きになった。安心、安全、平等、保障、という文句は”学校社会”のレイヤーにおける言葉である。つまりこの担当者は、「ここで自分の国をつくれ!」と言っているように思えたのだった。

 

今いる世界がすべてじゃないとはいっても、この世界で堕落する価値も信じている。堕落して自己を恥じるから生命は雄たけびをあげるものだと思っている。別のレイヤーを開拓して堕落を逃れることが本当にいいことなのか、私にはまだ分からない。私は自分を悪人だと思っているけれど、生命的にはこの運命を愛しているのだし、もし普通の善人になってしまったら、幸せになる代わりに人間の美学も失うように感じている。それなら、善人であるよりも悪人でありたいと思うのだ。別の世界に逃げることはせず、堕落した人間の苦悩を感じながら生きることを、選ばなくちゃならないように感じている。

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