人間一生誠にわずかの事なり。好いた事をして暮らすべきなり[151/1000]

朝日とともに新しく始まるこの1日も、あの紅葉のようにいつかは落ち葉となって、宇宙の中に還っていくのかな。

今日も太陽が昇って、昨日と同じように空を見上げるけど、いつの日か手にしたくても二度と届かない淡き青春の日となるのだろうか。

 

葉隠の一節が思い出される。「人間一生誠にわずかの事なり。好いた事をして暮らすべきなり。夢の間の世の中に、すかぬ事ばかりして苦しみて暮らすは愚かな事なり。」山本常朝は人の一生を「夢の間」と言った。夢の中にいるときは夢だと自覚できないように、今日という1日も夢の中のさらに小さな夢にすぎず自覚することは難しい。過ぎ去った時の中をきらきらと転がるあの光には、もう二度と触ることは許されず、私たちは懐古の情を抱きながら、遠くから眺めることしかできない。

 

今日という1日もその例外ではない。いつの日か戻りたくても絶対に戻れない青春の1日となる。

そんなことを頭では分かっていながらも、夢になるまで本当に夢だったと信じることができないのは人間の限界なのだろうか。死ぬまで死を体験できないのと似ている。体験できないから自分が死ぬことも心から信じることができないように、今日という1日も本当は夢であるということを、人によっては1年、10年の時を経て、遠い過去のものにならないと信じることはできない。

しかし、既に光の束となった青春の数々を思い出せば、今日という日もまた宇宙に還っていくことを信じる努力はできるかもしれない。

 

死を体験できないといいながら、実は毎日死んでいて、毎日復活を遂げているだけなのかもしれないとも思う。明日がやってこなくなってようやく死んだと思うかもしれないけど、それはつまり今日を迎えなければ昨日までの自分は死んでいるということだ。しかし、今日を迎えたとしても、昨日までの自分が死んでいないとなぜ言い切れるのか。宇宙に還っていった落ち葉のように、これまでの日々は既に光となっているではないか。

 

今日を終えたとき、今日の自分は死ぬ。頑張っても頑張らなくても苦しんでも苦しまなくても、等しく死んでいく。

「人間一生誠にわずかの事なり。好いた事をして暮らすべきなり。夢の間の世の中に、すかぬ事ばかりして苦しみて暮らすは愚かな事なり。」という山本常朝の言葉に嘘くささを感じないのは、山本常朝が既に死を迎えた人間だからだろうか。

人生に青春を感じる。青春は何も若かりし頃の話ではない。夢の間に起きたことはすべて青春なのだと、時代を超えた魂は言っているように思う。

 

精神修養 #61 (2h/130h)

今朝も止まない現世的な思考に、「相変わらず今日も肉体は現世に馴染んでいるな」と妙な安心感すらおぼえるほどだった。

卑しき欲望に嫌悪を抱きたくなるが、肉体が現世のものである以上、これは致し方ないことで、地上に足をつけていることを認めなければ、高貴を目指すことなど不可能だろう。宿命と運命の関係。

「今日もこの現世で大地の上に足を着けて生きている」という魂的な感覚がなんとも不思議である。

 

[夕の瞑想]

「同じ人間誰に劣り申すや」の精神で、足の痛みをひたすら耐える。この痛みは、自分の痛みでもあるが同時に人類の痛みでもあり、過去に武士道に生きた魂の痛みでもある。そう思うと勇気が湧いてくる。

魂の鍛錬という人類普遍の「大きな悩み」の前では、この痛みさえ、もはや自分だけのものではないという感覚になる。

この時代に生きる朋友も、過去の生きた偉人たちも同じ痛みを味わってきた。同じように苦しみ、同じように涙し、同じように喜んできた。

この「同じように」という感覚が、愛に通ずるものなのだろうか。この時代にも過去にも、同じように生きている(生きてきた)人間と痛みを分かち合うことに、繋がるものがあるように感じている。

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