森で隠遁生活をしていたとき、現実と夢が入れ替わった。
かつて幻だと認識していたものが、色彩と輪郭をはっきりと帯びた現実となり、逆に現実だと思っていたものが、曖昧な幻となった。世俗に舞い降りて3週間、再び、現実と幻が入れ替わり始めている。
隠遁の森は、「永遠」を生きた時間であった。わたしが出会う人間は、書物に宿る作家の魂だけであり、書物を読むことだけが日常だった森の生活では、幻に思われた価値観は、ことごとく日常に湿潤した。この転換の特徴を一言でいえば、物質観が薄まり、霊性観が強まったということである。
書物のなかには、20代や30代で若くして死んだ人間が少なくない。病に侵されて死んだ人間、自ら命を絶った人間、戦死した人間など、さまざまである。彼らの魂に毎日触れていると、70,80歳まで生きることが当たり前である福祉国家観は、人間の生き死にのほんの一形態であり、一時代の価値観にすぎないと感じるようになっていった。
われわれは福祉国家に生きるうちに、「長生き」を善とする福祉的価値観をインストールされつづけている。この物質感覚から解放され、人間は何歳で死のうが優劣が定まることはなく、われわれの霊体は、いつどこに死のうとも全面的に肯定されるものだという、宇宙感覚が日常を支配したのだ。わたしは、この霊性感覚だけが真実だと思うようになった。長生きに善があるのではなく、霊性を貫くに善があるのだと信じるようになった。
社会保障に文句を垂れるつもりはなかったが、明日生きられるのかも分からない生命が、老後のために保険をかけるなど、どう考えても生命観に反している。今日を必死に生きて、食えなくなったら死ぬ。行き倒れることがあれば、乞食になるまで。人間の「生きる」ことの保証が当たり前になりすぎて、自然の生命観が不自然になっていまいか。そういう意味では、社会から「野性」を取り戻したいと願う。
70,80歳まで生きることを前提とした価値観や体制は、肉体の安心を求めてつくられた。だが、物質肯定によって肉体の輪郭がますます色濃くなれば、かえって死の恐怖も増すものである。
現代特有の生きづらさは、霊性拒絶であろう。老後を不安に思えば、億劫になるが、われわれの霊性は死んでも奪われることはないのだ。いつどこで死のうが、霊性は霊性のまま、なにものにも奪われるものではないのだ。
霊性を思い出せば、怖れは失せるだろう。奪うことと奪われることは肉体の宿命であるかもしれないが、われわれの本体はどこにも奪われず、存在しつづける。この霊性をもって今日奮い立つ力になれと願う。
2024.1.15
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