人間が信じられなくなり、人間が信じられる国【インド紀行⑤】[620/1000]

インド入国のキックオフと同時に、旅人はセンターサークルでパスまわしをされる。あっちに行けと蹴られては、こっちに行けと別の者にまた蹴られる。このパスまわしにハマってしまえば、抜け出すのに絶望的な苦労を強いられる。

 

インドでは長距離鉄道を利用するのに、前もって予約をしなければならない。私は数日後に控えたバラナシ行きの鉄道を予約するために、「外国人専用オフィス」という場所を探していた。旅行会社でも手軽に予約はできるが、その分、当然料金は上乗せされる。私は金のない都合上、少しでも安くチケットを買いたかった。そのため、多少難易度が高くとも、「外国人専用オフィス」を探し当てたかった。

だが、地元の人間に場所を尋ねれば、5つも6つも適当な旅行会社に案内される。「そうじゃない、俺は正規の値段で買いたいんだ」と言っても、「ここがその場所だ」と言って通じない。彼らが善意でそういうのか、悪意でいうのか私には分からなかった。

 

5つも6つも、見知らぬ地を彷徨するうちに、旅の疲労は重なっていく。そうして弱音が漏れ出す一瞬を彼らは巧みに掴んでくる。「この人こそは大丈夫だ」「今度こそは大丈夫だ」と、信じたにもかかわらず、結果的に騙される形がつづくと人間不信になる。

政府関係者を名乗る人物には気をつけろと情報を入手していたが、旅行会社を紹介してくれたある男に対しては、この人は本当に政府関係者の人間だろうと、愚かにも私は信じてしまっていた。世界のすべての人間が、自分を騙してくるように思えてしかたがなかった。

 

***

すべてをNOと言えば、旅は楽しくなくなる。かといって、YESと言えば騙される。そんな葛藤を抱えていた私に神の手が差し伸べられた。これは偶然の出来事であったが、私は悪意を退ける強力な術を手に入れた。もし、インドに行こうとする人間がいるなら、後述する旨をぜひ身に着けてほしい。それは、夜明け前のデリーを歩いているときのことだった。

 

メインバザールという大きな通りを歩いていると、リキシャの男が話しかけてくる。彼らは何としても客を取りたいが、夜明け前ということもあって、観光客は私以外は誰もいない。格好の獲物である私は、5メートル歩くたびに別のリキシャに話しかけられ、夜明け前の街を静かに散歩することもできやしなかった。あるリキシャは、どれだけ追い払ってもしぶとく食らいついてきた。いい加減辟易し、困り果てていたところ、神の手は差し伸べられた。

 

私は堪えかね、助けてくれと祈りを捧げるように合掌し、敬虔に小さくおじぎしたのだ。すると、どうだろう。あれほどしつこかったリキシャの男はあっさりと引き下がっていった。私は一瞬何が起こったのか分からなかった。奇跡の力が働いたように思われた。反対の通りを歩いて、一部始終を見ていた若いい兄ちゃんは、親指を立てて「よくやった」と喜んでくれていた。私はいまだ、何が起こったのかよく分かっていなかったが、少なくとも、これはインド人の深くに眠る善意に近づくためのおまじないに思えた。

その後も、しつこく絡まれた際には、同じように合掌し、敬虔な態度でお辞儀を繰り返した。彼らは、すぐに引いていくばかりか、中には、急に顔の様子をかえて、私に対して同じように、合掌し、お辞儀を返す者まで現れた。

 

これを繰り返すうちに、私はこう考えてみることにした。インドとは信仰の国である。信仰には聖域があり、悪意も持つ人間も、この聖域には土足で踏み入ることはできないのだ。無論、ただ見よう見まねに合掌してもだめだ。神に身を捧ぐ、敬虔な信者のごとく、心の底から祈るように合掌する。そこに、彼らの聖性を揺さぶる何かがあるにちがいない。

この一連の出来事を通して、私は感動のあまり、涙が出そうになった。あれほど人間が信じられなくなっていたのに、彼らの人間を信じることができるような気がしたのだった。

 

2024.3.1

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