新潟は妙高高原。
納得のいく言葉が書けなくて、書いては消す、書いては消す、を延々と繰り返してる。ああああああああああああああ、発狂しそう。
95日目。よくこんなんで、ここまできたなと改めて感じるけど、こんな風に悶々とする感情を、これまでも、力づくで引きずってここまできた。
もうどうしようもなくなったら、最後は、力づくで、無理やり持っていくしかない。考えちゃ駄目だ。ただ引っ張る。引きずる。そして持っていく。うおおおおおおお、力の勝負だ。何も考えず、ただ強引にもってゆけ!生易しくなんてしない。スパルタでいくぞ!うおおおおおおおおお!
精神修養 #5 (2h/19.5h)
驚くほど静かだった。1時間の瞑想が、体感としては半分以下に感じた。
呼吸には、無数の種類があると知った。太い呼吸、細い呼吸、長い呼吸、短い呼吸、鋭い呼吸、鈍い呼吸、速い呼吸、ゆっくりな呼吸、うるさい呼吸、静かな呼吸、温かい呼吸、冷たい呼吸。
これらが無数に組み合わさって、1時間の中でも、呼吸が無限に変化しているのが分かった。
呼吸に気づいていても、雑念に意識が飛んでしまう。雑念から呼吸に戻ってくると、呼吸の形はまったく別のものに変わっていた。
その新しい呼吸を、ただ観察していると、また雑念に意識が飛ぶ。再び、呼吸に戻ってくると、また別の形の呼吸に出会う。この繰り返しだった。
息を吸って、息が身体を通過し、お腹が自然と膨れ上がる。呼吸をする身体は、まるで海の中をヒラヒラと揺れる海藻のようだった。
考えていることに従って、呼吸が変わるのか、それとも呼吸に従って考えが生じるのかは分からなかった。
「瞑想をすると、生活が引き締まる」と以前書いた。生活が引き締まるのは、生活に輪郭が生まれているからで、輪郭が生まれたことによって、生活のど真ん中を掴みやすくなったように感じる。
ほんの一瞬だけ、何もない静けさに出会った。瞑想をすると、日常では知覚できないような、特別な感覚を得るが、感覚に執着しては本末転倒になる。
ただそのままの呼吸に集中するのみ。
夕の瞑想。
「呼吸をしている」というよりも、「呼吸がある」という感覚。呼吸が移り変わる瞬間をとらえた。
自分の意思と関係のないところで、呼吸が自ずと変化している。まるで身体が意思をもっているようだった。
1時間の胡坐で足はかなり痛い。しかしこの痛みに注目してみると、足全体が痛いのではなく、痛みの中にも一番痛い部分、つまり「核」があることが分かる。
その痛みの核に、さらに集中すると、核の中にまた核がある。「足が痛い」というぼんやりとした認識から、足の「点」が痛いという認識に変わる。
またこの「痛み」の感覚そのものに注意してみると、一点にどす黒い気がまとわりついているような、そんなことが起こっているのを感じた。(この感覚に集中していたところ1時間の時間切れ。)
朝と夕に瞑想をすると、生活に骨格が生まれる。朝は「輪郭」が生まれると書いたけど、「骨格」が生まれるとも感じた。
骨格のおかげで、自分を築いていける、そんな感じ。
心の時間と、肉体の時間の両方が必要。骨格はあくまで心の時間で、築き上げるには肉体を使う必要がある。
感情を爆発させるスイッチは感情の核にある。
目を逸らさず、集中して、核を見極め、点のど真ん中を突き刺すように、点の中に入り込むように、すべてを体験すると、感情は爆発し跡形もなく消える。— 内田知弥(とむ旅, もらとりずむ) (@tomtombread) September 21, 2022
昨日の夕の瞑想で、痛みには核があると感じた。同じように、感情にも核があると感じている。
昨日、改めてオーストラリアのアデレートの山奥で、野営したときの日記を読み返して、感情は内側から爆発させることで、潔く、美しく、華麗に、宇宙に散っていくのだと思った。
感情が華々しく散る様子は、まるで感情を宇宙に還しているようだと思った。
自給自足の暮らしをされる青森南部のTさんご家族と会って、改めてこの世界のあらゆるものは循環していると感じた。中でも特に印象に残っているのが、コンポストイレ。便は肥料になるという話は知っていたけど、その循環を1つの生活として完成させているのを目の当たりにすると、エネルギーの流れが目に見えるようだった。
感情を宇宙に還すのなら、感情は宇宙からやってくるということになる。
まるで私たち人間に、ある種のエネルギーを「感情」として授け、感情を用いてこのエネルギーを爆発させてみろと言わんばかりだ。つまり感情は、宇宙からの挑戦状ということになる。「この感情をお前に授ける。お前はこの感情を爆発させられるかな」と挑発されているようだ。ふふふ、おもしろい!
体内に蓄積されていく感情は、言葉にしなければ、心が病んでしまう。しかし、溜まりにたまった鬱憤を、思いっきり爆発させるように晴らたときは、なんとも晴れ晴れしく、生き返った心地がする。
私たちが、エネルギーを感情として授かったのならば、感情の本質は自分だけのものではないということになる。真面目な人ほど、感情を一人で貯め込んでしまうけど、実はそれは不真面目な行いかもしれない。
自分だけのものじゃないものを、自分のものだけにしようとすると、結果心が病む。
感情はそもそも宇宙から授かった、自分のものではないエネルギーそのものであり、我々の使命は、感情の中に飛び込み、華々しく宙に爆発させることだ。
そうして、エネルギーを世界に還元させるなんて、なんとも生命活動とは偉大じゃないか!
華々しく、散らせていこう!夏は終わったが花火みたく爆発祭りは、ずっと続くぜ。
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