日曜日の過ごし方[147/1000]
日曜日。皆はどうやって過ごしているのだろう。日曜日の過ごし方が分からない。 日曜日は、ある人にとっては休日であり、ある人にとっては安息日である。 私はクリスチャンではないので、安息日について浅はかな理解しか…
日曜日。皆はどうやって過ごしているのだろう。日曜日の過ごし方が分からない。 日曜日は、ある人にとっては休日であり、ある人にとっては安息日である。 私はクリスチャンではないので、安息日について浅はかな理解しか…
ルソーが晩年に書いたという「孤独な散歩者の夢想」の一句を紹介したい。 僕の魂は今もって活動している。それは今もって感情と思考を生産している。そして、それの精神的内的生命は、一切の地上的現世的な利害関係の喪失によって、なお…
穏やかな太陽を全身が歓迎している。昨日の苦しみは、今日にはない。 幸せな人間とか、不幸な人間とかいう言い方は、語弊があるように思う。あたかもその人間の属性として、幸や不幸が備え付けられているような言い方だ。 …
最後に笑ったのはいつだろう。 一人の時間がつづくと、笑いのない日が淡々と過ぎていく。 魂の鍛錬といって、孤独を肯定してきたが、昨晩から今朝にかけては、どうしようもない苦しさにすべてを投げ出したくなった。 父と母の顔がみた…
若者が都会を欲するのは、命を燃焼するのに都会の刺激を必要としているからではないか。 年寄りが田舎を欲するのは、生命燃焼を大方終え、命の燃焼を急ぐ必要がなくなったからではないか。 「幸せになることは人生のゴー…
無宗教と無信仰は違う。無宗教でありながらも、自己の内に信仰の根源を持つ人間はいる。しかし、無信仰になれば天と繋がる重圧に耐えうることができず、肉体にすべてを委ねる水平的な生き方しかできなくなる。 天と繋がる厳しさの中に、…
どうして月曜日はこんなにも憂鬱になるのだろう。 「憂鬱」という言葉を使ったが、この感覚は他に的を射る言葉があるように思う。憂鬱というと、漠然としたどうしようもない不安感みたいな印象を受けるが、本当は「緊張状…
昨日、この1000日投稿を”もらとりずむ”からnoteに移動しようと試みた。理由は後述する。実際に、涙は人間の聖域からしか生まれない[139/1000]の記事をnoteにも投稿した。するとどうだ。…
一人でいることは気楽であるが、同時に厳しくある。人といることは楽しいが、同時に軋轢に苦悩する。 似たような感覚を私自身、ブログ投稿に感じてきた。人目に触れないところで黙々と書くことは孤独の厳しい戦いを強いられる。しかし裏…
放浪者に見える私も、一応働いている。引きこもり鬱のときに友人に拾ってもらった、立ち上がったばかりの小さな会社で。今は私と代表の2人。働いて1年近くなる。1年近く引きこもっていた私は、結果的に友人に助けられた。また病人だっ…