心の奴隷になることをやめて心の躾をはじめる。[209/1000]

中村天風先生は、フグは食うなと言っていたらしい。フグの毒も積もれば身体に害を及ぼす。毒が小さいものほど、今日すぐに身体に影響を及ぼすことはないので軽視されがちだが、日々の蓄積によってそれがドカンと表に出てくることは心とも似ている。あくる日突然、怒りが爆発することや、あくる日突然、つのる悲しみで無気力になることを経験する人は少なくない。

 

毎日言葉を残して209日目となる。せっかく言葉を綴っている。毎日、せっせと読みに来られる方もいる。ならば毒を積む言葉ではなく、元気が積まれる言葉を残したい。元気とは元の気、つまり宇宙エネルギーのことである。心が肉体と宇宙エネルギーの連結部分である以上、心を嬉しくも悲しくもする言葉は大切に扱われたい。言葉を大切にしろなどとは、どこにでも使い古された言葉である。しかし真理である以上、そんなことは知っていると傲慢にならず肝に銘じ真摯に取り組みたい。

 

第一私自身、そんなことを知ったつもりになっていたが、まったくもって身になっていなかった。理解することと自覚することは別物である。怒りや悲しみ、恐れに、少しでも打ちのめされているならば、言葉を大切に扱えていない証拠である。実際に口から出る言葉だけがすべての言葉ではない。心の中で発する言葉も言葉である。口からはいい言葉だけを発していても、心には無自覚で好き放題言いたいことを言わせておけば、心の奴隷になる。

 

陽が沈みそうになると、ああ寂しいなと感じる。ここまでは毎日のことである。感じることなのだから善でも悪でもない。問題はここからで、いい1日であったときは、今日は頑張れたなと、寂しさの中に温かい気持ちも生まれるが、心残りがある日には、今日はダメだったな、このまま一生ダメになるのかななど考えて、寂しさの中に打ちひしがれてしまう。心が発する言葉に無自覚であれば、いつも心に振り回され放題である。だから今日はダメだったななんて、心が悲しみを嘆こうとするのならそれを見逃がしちゃいけない。1つを見逃すと、5つも10つも生まれて、手に負えなくなるどころか、盲目となり振り回れるしかなくなる。だから心が発する言葉を1つも見逃さないつもりで、今日を生きられたい。

子供の言いなりになることが、躾けることよりも優れていると思う人は少ないように、心を大切にすることは、心の言いなりになることではなく、心を躾けることに似ているだろうか。言葉を大切にするとは、本当に使い古された言葉であるが、今一度この真価を自覚したい。

 

精神修養 #120 (2.5h/247.5h)

身体は眠たいようで、何度も意識が飛びそうになる。身体にとらわれすぎだと感じて、身体に気づくことも心に気づくこともやめて、気の本体に気づこうとすると、今まで体験したことのない静寂を感じる瞬間があった。その時間は僅かであったが身体の睡魔からは解放されていた。束の間の体験で、すぐに身体の眠さに引っ張り戻される。身体に引っ張り戻されると表現したとおり、眠ろうとする身体は気を引っ張るような作用が働いている。

 

[夕の瞑想]

朝感じられたように、身体でもなく、心でもなく、気の本体に気づこうとするもうまくできない。しようと思ってできるほど、精神は修養されていないのだろう。修養の目的は、法を身とすることである。その手段が心から消極性に覆われた妄念を取り除き、本来の心の状態、宇宙エネルギーの純粋に近づくことである。雑念を観察しながら、心に消極性が生まれることはかなり少なくなった。消極性はエネルギーを分散させるが、逆に疲れたり体調が悪かったり、エネルギー不足になりがちなときほど、消極性は生まれやすい。有事の際に、どれだけ心の安寧を保てるかが、本番であろう。あくまで瞑想は自己観察の癖をつけるための鍛錬であり、日常の実践ありきのものである。

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