寂しさの中に身を委ねて。/誤魔化さない生き方への憧れ[116/1000]

孤独に潰されそうになる中、「こういう時はいっそ自然に突っ込むべし」と人気のない静かな渓流まで来た。寂しさから逃れることもできた。でも、寂しさをいつまでも誤魔化してたら、ずっと死ねないままだ。

 

渓流までの道中、賑わうお店が立ち並び、孤独を紛らすことのできるいろんな誘惑に駆られながらも、ここで誤魔化したら何も変わらんぞと、決死の思いで振り切る。

孤独の向こう側にいってみないか。自分をこのまま、痛みの中に委ねてごらん。その先は、その先の自分がきっとなんとかしてくれる。どれだけ読んで知った気になっても、実践に勝るものはないんだよ。

それにしても、孤独は重たい。孤独にはまるで独特の重力があるみたいだ。

 

 

陽の沈むころ、渓流を眺めながら、圧力鍋でさつまいもを1つ蒸して食べた。寒さの中、ほんのり甘みのあるさつまいものは、優しい温もりがあって美味かった。寂しさは一気に吹き飛んだ。感情は紛らわした時には何も変わらないが、感情の中に身を委ね、内側から吹き飛ばせたときには、一皮剥けられる気がする。

 

さつまいもが美味しく食べられる季節になった。私のおすすめは、皮ごと全部食べること。野菜も果物も、皮に栄養が詰まってる。皮を捨てるのはもったいない。特に元気がないときは、皮ごと食べると、さつまいもの命を丸ごと頂けているようで、力が湧いてくるはずだ。

実で元気になる自分もいれば、皮で元気になる自分もいる。根や茎を食べて元気になる自分もいる。命まるごと肯定し、命まるごと元気になるのだ。

 

昨日はさつまいもが寂しさを吹き飛ばした。安納芋くらいの甘さを、無意識のうちに期待していたので、昨日食べたさつまいもは、それほど甘くはなかったが、それでもうまかった。久々に本物を味わったと思った。

このまま、焼き芋屋さんをやりたいと思った。寂しさに潰されそうな人間は、俺がさつまいもを蒸すから、食べて元気を出せ!とカッコつけながら、誰かとさつまいもの甘さに感動したい。

 

それにしても、昨日につづき、今日はお日様が顔を出さず、寒さも増して、寂しさを助長させる。これから冬にかけて、木の葉は落ち、枝は剥き出しになって、野に咲く花も少なくなる。寂しい季節がやってくるよ。

さつまいももいいが、これからは寒空の下で、誰かと鍋も囲いたい。この冬はおそらく、山梨は小淵沢あたりに拠点をはることになるので、孤独な人間はホクホクのさつまいもと、私オリジナルの特製トマト鍋を囲いにきてください。家はありませんが、「とむの家」はいまだ健在です!

 

精神修養 #25 (2h/60h)

今朝も心は散漫だった。反応しているとき(例えば、茂みがガサガサ動いたり、知くに人の気配を感じるとき)は、その先に「死」を感じている。

茂みから熊が出てきて襲われるかもしれないとか、人に急に襲われるかもしれないとか。不快の先をつきつめていけば「死」があり、死を感じられるほどの集中力がなくて、恐怖に飲まれ、目を開けてしまう。

 

目を開けて状況を確認しながら、死の恐怖を回避している。安心は得たが、「死に損なった」ともいえる。

この恐怖は回避するのではなく、突っ込んでいく(感じてみる)と、意外と大したものではないことを知る。「死」と言いながらも、起こりうる最悪の自体は、大したことでないのが大半である。

これに気づいてからは、「今ここにある恐怖は本当に怖がるに値する恐怖か」という問いをするようになった。現実から目を背けることによって、必要以上に恐怖だけが肥大化していることは多い。

 

[夕の瞑想]

瞑想をしていなかったら、今日の孤独には耐え切れなかっただろう。また瞑想をしていたから、孤独に突っ込むことができたと言っても過言ではない。感情を誤魔化さないとは、言い換えれば、反応的にならないということである。感情のど真ん中を生きたい人には瞑想をおすすめしたい。

今日も相変わらず、心が気まぐれなようで、瞑想を終えると、五体満足の健康な身体があることが、とてつもなく有難いことに思えて、涙が出てきた。

 

寂しさに潰れそうになったかと思えば、さつまいもに感動し、五体満足に涙するという心の変化が、この2時間の間で起こっているのだから、なんとも心は気まぐれである。

また今ここの感情は固定されるものではなく、突き進むことで、流動的なものになることをおぼえておきたい。諸行無常だ。

 

誤魔化さずに生きることは、茨の道である。この生き方は簡単ではないと思うが、仮に今日を誤魔化しても、誤魔化さずに生きる人間への羨望がつのるばかりで、どこまでもいっても自分は誤魔化しきれないことを知っている。遅かれ早かれ、誤魔化さない生き方を選択せざるを得なくなる。

葉隠の有名な一句「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり」には、このように続く。

二つ二つの場にて、早く死ぬ方に片付くばかりなり。(中略)二つ二つの場にて、図に当るやうにすることは、及ばざることなり。我人、生くる方が好きなり。多分好きの方に理が付くべし。

葉隠の考え方を現代に持ち込めば、(今時点の私の浅い解釈として)誤魔化さない道を選ぶことで、死を辿り、生を輝かせることができると思っている。死を辿るとき、何が起こるか分からない。それは言うは易く行うは難しであり、いざとなれば誤魔化すための口実は、いくらでもつくれてしまう。

だから口実をつくる前に「苦しかろうと正しいことだと思うならば”必ず”為す」という覚悟が必要になる。この覚悟を持つために、毎朝入念に死んで、死に身となって、選択を迫られたときの憂いや迷いを無くす。

 

葉隠武士から学ぶことは、まだまだ多い。

繰り返し読んで、引きつづき、道の探求をつづけたい。

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