心の重力を解放すること/死と生のどちらも心に当てること[115/1000]

放心状態とは、心を放つこと。心は平常時、出会うもの全てを自分の方へ吸収しようとする求心力が働いている。

それは「心の重力」のようなもので、出会うすべての人、景色、体験、感情、思考などを中心引き寄せようとする。しかし、この重力には限度があり、多くを引き寄せ、限界を超えれば、力はいっきに解放されて、反動で外側に散らばっていく。心にまとわりついていたあらゆる感覚は、四方八方へ散ってゆく。

心が放たれたこの状態を、放心状態という。

 

もっとピアノを弾き込まなければこの命を終えられないと数日前に思い立ち、実家に帰り、電子ピアノを車に積み込んだ。あわせて、山の冬に備えて、厳選した冬物服も車に積み込む。

そうして昨日、威勢よく家を飛び出したものの、とある忘れ物をして、今朝いちばんに2時間の道のりを逆走することになった。この時間は不毛で、加えて運転に全集中した私は実家に着くころには疲弊しており、母が出してくれたコーヒーを前に、ただ虚空を見つめて、ボーっとしていた。

 

このときに、心が放たれている感覚をおぼえた。心にまとまわりついた、色んな感情を自分が握っていたことを知って、その手を緩めることができているようだった。同時に、心は平常時、出会うもの全てを吸収するような、求心力が備わっているのだと気づいた。

 

放心しているときは、何とも心地よく、少しずつ元気を取り戻しているのが分かった。また、人間は、息を吸いながら吐くことができないように、吸収と排泄は同時に行うことができない。この法則はここでもあてはまるようで、母に話しかけられたとき、放心が阻害されるのが分かった。

 

放心と瞑想は、執着しないという点では似ているが、瞑想は心の重力そのものまではなくならないように感じる。重力の上に生きる存在を、ただそのまま観察しているような。放心は、心の重力そのものがなくなり、その反動によって四方八方へ散る。

この辺りは、すごく感覚的な話になり、また私自身もこの分野を語れるほどのエキスパートではないので、これ以上踏み込むのは控えることにする。

 

いずれにせよ、放心、日常的な言葉で「ぼーっとすること」は心に優しいことであるように感じる。抜け殻のように、虚空を見つめていれば、傍から見れば、まぬけ顔かもしれないけど、どうしようもなく疲弊したときは、抜け殻になろう。

 

精神修養 #24 (2h/58h)

今朝の心は、かなり散漫だった。朝から胸が躍っていた。胸が躍るとき、弾むように色んな思考がやってきては、身体中に色んな感覚をもたらしていく。

最近のテーマである葉隠武士について少し考えていた。自分の死を想像するよりも、大切な人の死を想像することのほうが怖い。身近な人の死を、葉隠武士はどう向き合っているのだろう。

 

身体には「生(なま)の感覚」が生じる。感覚は不快であれば「痛み」となる。痛みを、思考を介して言葉に置き換えると「苦しみ」や「悲しみ」や「怒り」や「不安」や「憂い」となる。

瞑想をして58時間、身体に生じる、生の感覚を感じる癖がついたようで、今日、運転中、後ろからトラックに煽られたとき、身体に生じる感覚に気づいていた。

これを言葉にすれば、恐怖、怒り、悲しみがぐちゃぐちゃになったような感情であったが、言葉になる前の、生の感覚の世界において、恐怖や怒りや悲しみという呼び名は存在しない。痛みがあって、感覚がそのままある。

夕の瞑想中は、身体中に色んな痛みが生じては消えてゆくのを、ひたすら静かに観察していた。ただじっと座っているだけなのに、無限に生じる思考と同じように、たくさんの痛みが生じているのは興味深い。

 

「葉隠」はしかし、武士というところに前提を持っている。武士とは死の職業である。どんな平和な時代になっても、死が武士の行動原理であり、武士が死をおそれ死をよけたときには、もはや武士ではなくなるのである。

(中略)

現代では、すくなくとも平和憲法化の日本で、死をそのまま職業の目標としている人たちは、たとえ自衛隊員でも原理的にはありえないと考えている。民主主義の時代は生き延びるのが前提にある。

葉隠入門, 三島由紀夫(新潮文庫)

 

葉隠武士の探求はつづいてる。武士の前提には死があり、現代は生き延びることが前提にある。この前提の違いは、葉隠武士を学ぶ上で常に心に留めておきたい。

そもそも、私が葉隠武士を学びたいと思ったのは、死の問題が意識の表面から拭い去られている世の中に、嘘くささのようなものを感じ、また私自身、自分の死を身近な問題として捉えたほうが、今日をよりよく生きられるという実感があるからだった。

 

帯刀して生きる世の中から変わったとしても、人間が死ぬという事実は変わらず、悲しいことにそれが今日突然に訪れる可能性だってある。死の問題は、遠くへいったようで、実はずっと変わらず身近にあるものだ。

江戸の人からしたら、今のほうがよっぽどクレイジーに見えるかもしれない。車の運転なんて、時速60kmの鉄の塊を、お互い1mの距離ですれ違わせるのだ。どちらかが気が狂い、ハンドルを傾ければ、ただじゃ済まない。こんな日常に命を懸けてる。

 

毎日死を心に当てることは、毎日生を心に当てることと、いわば同じことだということを「葉隠」は主張している。われわれはきょう死ぬと思って仕事をするときに、その仕事が急にいきいきとした光を放ちだすのを認めざるをえない。

葉隠入門, 三島由紀夫(新潮文庫)

 

探求はまだまだつづく。

おわり!

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