愛による干渉の嬉しさ[512/1000]

不思議だ。あんなにも世に背を向けて、山奥で隠遁生活をしたいと思っていたのに、己のなかに善意を見つけてからは、森から出たいという気持ちが高ぶってきた。

 

人間愛という代物は、一歩間違えて同情におぼれれば、人間を堕落させ、虚無の谷底へ突き落す。ニーチェが言うように、神が死んだのは、神が人間に同情したからだ。同情は自分の十字架を背負うことであり、時として身を亡ぼすものである。

しかし、人間愛を捨てて、現世を生きるには、生はあまりにも空しい。心は常に悪意に満ち、死に憧れて肉体を拒絶するなんて。

 

魂の価値を拒絶するつもりはない。魂無き世の中は、水平で味気なく、人間の尊厳を冒涜しているとさえ感じる。思想を立て、精神を築き、人間愛の原理でいることを忘れないことだ。

同情には気をつけろ。同情は精神を殺し、思想を殺す。愛は愛でも、厳しさを紡ぎだすことだ。それを本当は多くの人が知っている。なぜなら、歳を重ねても、いつまでに魂に刻み込まれているもの、それは愛の原理によってなされた厳しい干渉だったからだ。言う側も辛く、言われる側も辛い。こうした誰も得しない諫言のなかに、愛の価値はあろう。それができる人物をめざさねばならん。

 

***

 

年末に一度、実家に帰る。それ以降は、また隠遁に戻るか、働きに出るか、まだ分からない。今は森から出たい気持ちが高ぶっているが、隠遁のなかで書物にぶつかることの価値も実感している。

 

<今年中に読みたい(読み返したい)本メモ>

-「魔の山」トーマスマン

-「失楽園」ミルトン

-「カラマーゾフの兄弟」ドストエフスキー

-「罪と罰」ドストエフスキー

-「ファウスト」 ゲーテ

-「若きウェルテルの悩み」ゲーテ

-「若きサムライのために」三島由紀夫

-「シーシュポスの神話」カミュ

-「ペスト」カミュ

-「ツァラトゥストラ」ニーチェ

 

【書物の海 #42】魔の山, トーマス・マン

私たちの内部にはいかなる形式の時間感覚器官も存在しないからであり、したがって私たちが時間の経過を、自分たちだけで、外部の手掛かりなしに、ほぼ信頼するに足る程度にでも算定することが絶対不可能だからなのである。坑内に生き埋めにされて昼夜の交代を全然見ることができなくなった坑夫たちが、奇蹟的に救出されたとき、暗黒の中で希望と絶望との間に彷徨した時間の長さを、三日間と考えていた、ところが実は十日間であったというようなことはよくある。

 

一点から一点への運動は、完全に均一不変な世界にあっては、運動ではなくなってしまうし、そして運動が運動でなくなれば、時間もなくなってしまうのである。

 

2023.11.14

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