石橋は叩こうと思えば無限に叩けるが、その姿はかぎりなくダサい[81/1000]

青森県南部町で手作りの暮らしをされている、Tさんご家族とお別れをした。

別れ際、五分づきのお米一升と、梅干しをいただいた。意外とあっさりとしたお別れだったが、そもそも死ぬわけじゃないし、大げさにする必要もないよなと思った。

しっとりとしたお別れこそ、いい別れだ!みたいな思い込みがあったけど、秋晴れの朝に似合う、こんなカラッとしたお別れも、爽やかでいいかもしれない。

 

 

1人になると、つい色々考えてしまう。考えるほど、考えの中では解決できなくて、いつも途方に暮れる。(だから考えるのをやめたい!)

私は言い訳が得意なようで、油断をすれば、言い訳を無限に作り出してしまう。

 

2か月くらい前、長野は富士見で、ほどよい山に囲まれた0円の空き家を見つけた。持ち主とも話し合って、私が「ここを譲ってくれ!」と一言伝えれば、譲ってもらえる段階まできた。

 

しかし、まだ空き家は譲り受けていない。

最後の一言のところで、車をとめる場所はどうするかとか、土地の境界線が分からないとか、陽当たりや風通しも微妙だから他の場所も見てみようかとか、やっぱり海の近くがいいよなとか、無限に言い訳をつくって、最後の決断を下せないでいた。

 

 

青森は南部町で、自給自足をするTさんご家族と会って、また1つの選択肢が生まれた。Tさんご家族は、近くに土地を余らせており、同じように自分で暮らしをつくりたい人に、土地を貸して、一緒に生きたいという。

ここで暮らしをつくれば、先人の知恵を間近で学ぶことができる。それはとても心強いが、森の中に拠点をつくるという、もともと掲げていた形はおそらく失われる。

 

 

パーフェクトな条件を見つけようとしても、都合のいいものは中々ない。

それを見つけるまで、ずっとずっと動き続けることも1つの手だろう。実際にこうして、長野の富士見のだけじゃなくて、青森の南部にも選択肢が広がった。

 

しかし山に登りながら、海では泳げないし、空を見上げながら、地に咲く花を眺めることはできないように、どこに行っても、言い訳は必ずつきまとう。言い訳は無限につくれてしまう。

 

 

もし自分が言い訳をはじめたら、石橋をたたいている姿を想像したい。

今日も朝から石橋を叩いて、明日も1日、石橋を叩いている。石橋は叩こうと思えば、無限に叩けるが、その姿はかぎりなくダサい。

 

どれだけ石橋を叩いても、橋を渡ったら、突風がふいて落とされるかもしれない。石橋をどれだけ叩いていて、分からないことはある。

結局のところ、やってみないと解決しない。

 

ありきたりな結論で、まぁしょうもないこと書いてんなぁと自覚してはいるけど、このモヤモヤをぶっ飛ばすには、動くことしかない。

 

 

別に死ぬわけじゃない。渡ろうとしている橋は、カイジに出てくるような、高層ビルの間にかかってるようなものじゃないでしょ。

実は橋から落ちても、川に足がついちゃうくらいの、橋なんじゃないの。

 

いつまでも石橋を叩いて、何もやらないでいたら、逆に死にたくなるよ。

叩いていないで、渡っちまおう。もし橋が落ちたら、それはそれで楽しんじゃおうぜ!

 

DO OR LIVEで、STAY OR DIEだ。

この秋晴れにふさわしい、カラッとした涼しい風と、軽やかなノリを思い出して、前に進もう。

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