森の家づくりの最後の砦、扉づくりにとりかかったが、本日は気持ちのいいほどの敗北を喫した。これまでの経験をもとに、廃パレットを分解して、扉をつくるところまでは難なくこなした。問題は次である。ちょう番をつかい、扉と家を接続する段階で、家のほうは自然木をそのままつかっているため、曲線の形状によって扉がうまくおさまらない。無理やり取りつけてみたものの、手を離せば、扉が勢いよく全開に空いてしまう始末で、あれやこれやどうしようかと、扉をあけたりしめたりしていたら、ちょう番に負荷がかかって、鈍い音を立ててぶっ飛んでいった。敗北する度に、ホームセンターを往復し、やれるだけのことはやったが、今日これ以上やっても、いい加減になる一方なので、ここで切り上げることにした。
勝ち負けは曖昧になると、どうもうまくいかないなぁともやもやしながら、床につくことになるが、敗北が完全な黒の黒となると、かえって諦めがついて清々しいものだ。もやもやするときは、自分が往生際が悪くなっているときなので、潔く、俺は負けたと諦めるか、往生際の悪さを発揮して、ちまちまと作戦を練るかのどちらかにいく。しかし、作戦を練るつもりでも、実際やってみないと分からないことは、悩みとなって反芻してしまうので、剣でグサッと豪快にやられたのごとく、敗北をちゃんと認めてしまうのがよい。
今日もファウストを写本する。
「空想が一度は大胆に羽撃(はばた)いて
意気揚々として永遠に向かって進んで行っても、
時の渦に呑まれてどの幸福も得られないとなると、
狭い場所に身をちぢこめてしまう。」
「構うものか、地上を照らすやさしい太陽に、
思い切って背を向けてしまえ。
誰もが怖れて通りすぎる
死の門を敢えて押し開け。
空想がわれとわが身を呪い苦しめる
あの暗黒の洞窟を少しも怖れず、
狭い入口から地獄中の火が燃え出ている
あの通路へ押し進んで、
たといこの身は虚空に消え失せようとも、
従容(しょうよう)として自殺するという、
神々の気高さにも屈しない男子の意気地を
行動によって証明しようというのなら、秋(とき)は今だ。」
昨日も書いたが、ほんとうに気高い言葉は声に出して朗読すると、何倍も、何十倍も味わい深い。私の声帯が真に発したがっていた言葉は、私の耳が真に聞きたがっていた言葉は、私の肌が真に触れたがっていた言葉は、このような気高い言葉だと、全身が涙する。
声に発してはじめて分かる。いかに、自分が普段発している言葉が低俗であり、私の五感のすべてが、この響きに飢えていたか。五感を欲望のままに扱えばそれまでのものとなるが、本来五感には、こうした気高い存在に触れる力がある。五感は快楽を味わうためのみならず、神に通ずる気高きものを掴む力があり、魂はそのように五感を扱うことを、真に望んでいる。これは私が今、身をもって体験している。
「構うものか、地上を照らすやさしい太陽に、
思い切って背を向けてしまえ。」
響きを響きのまま。今日は、頭で分かろうとせず、この響きをそのまま浴びて居よう。
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