男も女も、雄々しくあれ。②[603/1000]

秘すれば花なり 秘せずは花なるべからず。これは世阿弥の言葉である。

秘密の多い女に男が夢中になるのはどうしてだろう。内に秘められるものがあるほど、対象の宇宙が広がっていくからではなかろうか。そして男もまた、女に対する想いを打ち明けることなく、内に想いを秘めつづければ、恋の丈はますます高くなる。男女の恋は相対的なものだ。相手の丈が高くなるほど、互いにいい存在になっていく。

 

何でもかんでも自分の想いを言葉にしろという風潮を私は好かない。言葉にしないほうが格好がつくことも当然ある。言うべきことと言わぬべきことの境を見極めることは、羞恥心を旺盛とし、相手の心中を察することのできる日本人の得意とするところであったはずだ。そうした秘められた男女の越えられない領域から、性の地に崇高な精神性は開花したのではなかろうか。秘められた”異性”性に性の真価はあったのではなかろうか。

 

さらけ出すことは、自由の原理であるが、同時に堕落の原理でもある。換言すれば、男女に隔たれた壁を無くす試みである。障壁がなくなれば争いは減る。だが、同時に恋も無くなる。理解は生れるが、想像がなくなる。秘密はなくなるが、神秘がなくなる。宇宙はなくなり、肉体的となる。これは自由ということもできようが、私は地上に幽閉される不自由をより大きく感じてしまう。壁はあっていい。高ければ高ければいい。その壁を越えて行くために、われわれは雄々しさを必要とする。ゆえに、恋は人間的である。人間は雄々しさに向かっていく。

 

“男は自分の情熱に酔い、女は男の情熱に酔う”とは、トーマスマンの言葉であった。保守的な考え方ではある。だが、性エネルギーの真理をついていると感じる。雄々しさを追求した先に、男は義を見つけ、女は愛を見つける。己のうちに欠けているものを異性に求める。その調和がとれる相手を、エネルギー的に感知する。

神はどうして男と女を作ったのだろう。これは、一つの形而上学である。私はこうした問いを前にすると、神の美学を信じたくなる。今日のところは、性の壁を越えていく過程で、人間が雄々しさを手にするためだと結論づけてみよう。男も女も、人間たるもの、雄々しくあれ。そう神が定めたのなら、雄々しさによって紡がれてきた人類の歩みも、少しは理解できるだろう。

 

2024.2.13

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