ある意味ごまかし、時には純粋に死にそうになり、その塩梅をみつけて生きている。[462/1000]

毎日、書くことをして462日目。これといって書くことが思いつかない日には、見苦しくもつまらない私情を書き連ねたことも少なくないが、どうせなら、美しい言葉や、魂に響く言葉を写本したいと思った。そうすれば、私にとってもこれを読む人にとっても、ずっと中身のある時間になるに違いない。

ゲーテのファウストの冒頭で、詩人はこう語る。

 

「そこでわれわれの胸奥(きょうおう)から迸(ほとばし)り出るもの

おずおずと言葉にしてみようとするもの

その時々で出来不出来はあるが、そういうものは、

群衆の前に引き出されると、雲散霧消してしまうのです。

何年もかけた挙句にやっと完成する、

そういうことも少なくはないのです。

どきつく光るものは場当たりを狙っているので、

本物は永くのちの世に残って行くのです。」

 

あまりの美しい言葉に涙が出そうだ。いや、胸の内で大号泣している。美しい文章は、声に出して読みたい。この崇高な響きを、声帯で味わい、耳で味わい、肌で味わう。たぶん、それを毎日していたら、必ずそういう人間になっていく。まさに、この文章こそ、ゲーテの胸奥から迸り出たものだ。もちろん、この文章にかぎらず、「ファウスト」一貫していえることである。これはたまたま、数ある付箋の、いちばん最初を写本したにすぎない。

 

けっして、群衆の前には引き出されることはない。それは難解だからではなく、美しすぎて毒になるからである。群衆は、これを濁すようにして解毒する。なぜそれが起こるのか分からないが、品のない笑いはそうして蔓延る。

本当に美しいものは、孤独になって本を読むことでしか、出会うことができない。私自身、それを身をもって体感している。また、美しい人間が必ず孤独なのも、人間そのものも群れにまぎれた途端、その美しさを雲散霧消させてしまうからだ。私は自分が美しい人間であると言うつもりは微塵もないが、この感覚も分からなくはない。孤独を保ったままの付き合いにはある胸の迸りも、飲み会のような群衆的な付き合いには失われてしまう。美しいものには毒があり、そして、繊細な指使いでそっと触れなければ壊れてしまうような脆弱さもある。ゆえに、美を掴んで生きた人間のなかには、自殺したものも少なくない。

 

純粋すぎれば死んでしまうので、適度に俗を取り入れる。そうして、ある意味ごまかし、時には純粋になりすぎて死にそうになり、その塩梅をみつけて、今生きている。いつの日か、純粋な美に触れたいと願うが、その深淵をのぞいたときには、もう時すでに遅く、ほんとうに死にかねないと思う。実際、これまでに本当に死にそうになったこともあるのだ。それ以上踏み込むのが、心底怖ろしくて、美というものを退け、低俗に留まるざるを得ない。

しかし、やはりこれこそが動物にはない人間の醍醐味であり、ここに人間としての生の意味を見出すのなら、少しずつ少しずつ、死なない程度に踏み込んでいきたいと願うのである。

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