分からない。執行草舟氏の「超葉隠論」を読了したものの、魂が粉砕した感覚しかなく、どう言葉にしたらいいのか分からないでいる。なんというか、凄まじかった。
今日はあえてこの粉砕した感覚を言葉によって修復することを試みないでおきたい。なんというか、言葉にしたら、「それまでのもの」として終わってしまう気がする。粉砕された魂のエネルギーをこのまま圧縮させて、圧縮させて、圧縮させて、極限まで追い込んだ後に、盛大に爆発させて1つの言葉を得たい。
とにかく圧縮、圧縮、圧縮させたいので、今日は書くことを控える。そしてもう一度、書と向き合って、さらにエネルギーを凝縮、凝縮、凝縮させたい。
精神修養 #32 (2h/74h)
瞑想とは、精神の自分と出会うことである。精神修養とは、「精神の自分を研ぎ澄ますこと」(←他に適当な言葉がまだ見つからない)である。
「気づく」「観察する」行為を経て、人は初めて肉体の自分を認識する。肉体の自分を認識するとき、相対的に精神の自分を認識する。これが私が「瞑想をすると輪郭が生ずる」と感じていた輪郭の正体である。
日中、目を開けて生活するとき、肉体の自分と精神の自分は融合するように一体化する。人間であるとは、精神の自分として生きることではないか。肉体として生きれば人は動物となる。精神修養は言い換えれば、人間として生きるための修行であるといえる。
[夕の瞑想にて]
足が痛い。尻が痛い。肉体は悲鳴をあげる。精神の自分と肉体の自分がぶつかり合う。ぶつかり合いに負けると、目を開ける。葉隠の言葉に「死に身」になるとあった。肉体の自分が死に身であるように思うと、足や尻の痛みへの執着は離れ、痛みが痛みではなくなり、そのままを俯瞰できる。
肉体の自分を死人(しじん)と考えるなんて、両親から与えてもらった身体を粗末にするようで、葉隠はなんて悲しい思想なんだ、と最初は思った。しかし、これは思い違いであった。
武士の切腹は、肉体が死ぬ代わりに、精神が生きた。「身体を粗末にするようで」という私の発想は、現代の物質主義と肉体至上主義そのものなのだと後々気づかされた。今は、肉体の価値が高く、精神の価値は低くなった。執行草舟氏は、これを人間から崇高さが失われ、動物と等しくなったと言っている。
肉体の自己から離れると、精神の自己が浮き彫りになる。精神の自己もまた両親から授かった「私」である。自虐に陥り肉体をただ痛めつけるのとは違う。精神の生が前提にあって、生きるために死ぬことが、葉隠にある。
精神の自己を感じながら、両親から授かった私を感じていると、両親にも同じように、肉体の奥に精神があり、魂があることを感じていた。そして本当の意味での両親との出会いは、肉体に囚われないものであるとも感じた。
これは葉隠が「愛」に通ずる部分だと思う。人間として生きるのは茨の道であるが、本物の愛はそこにある(のだと思う)。
とても厳しい世界を突き付けられている。でもこの美学を追い求める生き方に私は本物を感じるんだ。
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