インド行きの航空券を買った。[597/1000]

何の気持ちの整理もつかないまま、インド行きの航空券を買った。気持ちが整理されるのを待てはしなかった。よし、旅に行こう!と思い立った勢いで、力強く旅立つ力を失いつつあったからだ。これ以上待てば、旅立つ力が完全に失われてしまう。そうなる前に、今いる場所を強引にでも抜け出す必要があった。

 

私は力を賛美する。力とは生命の象徴であり、無気力は生命の敵であるという信条を持つ。それは私自身、無気力な日々に沈殿していった体験が基にある。無力の渦に呑み込まれると、自信も勇気も、あらゆるものの力を奪われていく。

あれほど無力になることを怖れていたというのに、今日の私もまた、今いる環境の大きな性格に抗えなくなっていた。環境から抜け出すための力を完全に失ってしまう前に、強引にでも旅を決めてしまう必要があった。その最終的なきっかけとなった出来事については、また日を改めて書こう。

 

私は物が貧しい場所や、寒くて飢える状態のほうが「力」が芽生える。それが、私が森につくった小さな家だった。森の家にいると、みるみる元気になっていった。元気とはどういう状態をいうのだろう。ご飯をちゃんと食べるとか、ちゃんと寝るとかいうようなことは、あくまで目に見える生活領域の話である。生活をちゃんとすることで元気になることもあるけれど、生活よりも大きなものを優先したほうが、元気になることもある。私は目に見えない宇宙的な力の作用を信じるのである。この力が全細胞、四肢と内臓のすみずみにまで、くまなく力が行き渡る状態を元気という。

もし、生命に義務があるとすれば、この生命が生まれ持つ本来の力を、摩耗させないことだと思うのだ。生命を無気力にしようとする何かに対し、生命は戦いつづけるのである。

 

そこで私は、最低限のルールを設けた。これだけできてたら、お前はどんな風に生きても大丈夫だという、確信に満ちたルールだ。それが「素朴な慣習を洗練された慣習から守ること」だった。素朴なものは人間に力を与え、洗練されたものは人間を無力にする。そして、洗練されたものは、素朴なものを簡単に食ってしまう。読書は人間に力を与えるが、テレビが点いていれば、読書は絶対にできない。静謐な森林も、品位のない道化にかかれば、空気は簡単に壊れてしまう。

文化が消滅しつつある今日は、まさにこの現象が社会的になったものであると私は考える。文化的であるには、力がいる。文化を壊すのは力のない粗雑なものである。ゆえに、私は力を賛美する。個人レベルにおいても、己のうちに力を守ることが義務だと思うのである。

 

今日から約3週間後の2024年2月27日、私はインドに旅立つ。投稿に時差があるため、これが読まれている頃には、私は既にインドにいるだろう。勢いでチケットを取ってしまったから、実はまだ旅についてなんの考えもない。

だが、ようやく「力の原理」に戻るきっかけを得た。力の原理に生きるには、第一に、己の力を信じることだ。力を信じるしかないのである。自分ならできると信じること。この信条が揺らいでしまうのなら、何度でも繰り返すこと。己の力を信じよ。素朴な慣習を信じること。

 

2024.2.7

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