生きていることが分からなくなるから生きた証を残したいという気持ち[28/1000]

昨日は、暑さと暇と人との比較で、心を病んだ。

鬱になったある人が、その日の自分の体温や、湿度、気温なんかを測定して、どういう時に体調が崩れるのか、データ化したという話をどこかで聞いたことがある。その人は、前日との気温差で鬱になりやすいことが判明したといっていたけれど、これは少なからず私にも当てはまっていると最近知った。

 

雨や曇りの日が続いている中、急に暑くなると、心が不安定になる。逆もまたしかりで、暑い日から急に寒くなっても、心が不安定になる。

暇になると、心にポッカリと穴が空いたようで、生きることそのものに大きな虚無を感じるようになる。

人との比較は言うまでもなく、「俺は文才がない」だとか「芸術性がない」だとか「もっとちゃんと生きなきゃダメだ」だとか、勝手に自己攻撃を始めて死にたくなる。

 

弱っているときの自分も、弱っているときの言葉も、誰かに見せたくない。こうしてブログを書いている今も、せっかく元気になりたくて読んでくれている人がいると思うと、そんな人たちが読んで憂鬱な気持ちになるようなことだけは、絶対に避けたいと思う。

そんなこともあって、元気でいなきゃいけないみたいに思っている自分がいる。けど、そのままでいるって、多分そういうことじゃないんだろうね。

 

そのままは、必ずしも元気だとはかぎらなくて、元気じゃないときもある。元気な自分も元気じゃない自分も、ただそんな状態として、ここにそのまま存在している。

そのままは、そのままの自分でいることの前に、そのままの自分がここにあるのが先。そのままの自分がここにあるのを感じて、感じたことを世界にそのまま解き放つことで、結果的に、そのままの自分でいられる。

 

無理に元気な自分を演出せず、ただそのままでいる。もっと正確に言えば、そのまま元気のない自分を感じて、悲しみや苦しみもそのまま言葉にする。

本当は、何にも取り繕う必要なんてないんだ。ただ自分の内にあるそのままを形にすることが、自分が生きた証となって残る。

 

書いてて思った。そのままって、書くとか綴るとかよりも、「残す」って言葉が一番しっくりくる。

動くとか、書くとか、作るとか、奏でるとか、歌うとか、踊るとか、動作に違いはあれど、やっていることは、いまここにある自分を世界に残すということかもしれないね。この瞬間に生きている自分を、世界に刻むように、ただ残す。

 

暇に殺されそうになるときは、生きている心地が得られなくなるからだと思っていたけれど、裏を返せば、自分がここに生きていることを実感したいのだと思う。さらに言い換えれば、何かしらの生きた証を残したいだけなのかもしれない。

少なくとも、私はとてつもなく、瞬間瞬間を生きている証を何か残したい。いまこうして毎日言葉を残しているけれど、それだけじゃ足りない。もっともっと、何かを残したい。

・「「暇」だと鬱になる理由。暇なら今日を盛大に遊ぶしかない[21/1000]」

 

暇なら働け!と言われそう。

まあそのとおりだと思う。1日12時間、朝の7時から夜の11時近くまで皿洗いの仕事をしていたときは、暇で鬱になることはなかった。お金はそこそこ貰えたけれど、単調な仕事は苦痛だった。暇に殺されることはなかったけれど、自分で自分を殺しているようだった。

志をもって、中学校で先生をしていた頃は、3時間の睡眠以外は、ずっと働いていた。暇には殺されなかったし、自分で自分を殺している感覚もなかった。けど結果的に心を病んだ私は社会に殺されたのだと思う。

 

 

昨日、ぐったりとしながら、神様に一つ才能を恵んでもらえるとしたら暇を楽しめる才能が欲しいと思った。暇に殺されることもなく、自分で自分を殺すこともなく、社会に殺されることもない。

それは遊ぶこと。自分で何かをつくること。始めちゃうこと。お金になるとかならないとか、社会のためになるとかならないとか、立派だとか立派じゃないとか考えずに、ただ楽しんじゃうこと。

 

でも本当は、そんなことを書きながら、才能なんて必要ないって気づいている。

上手にできようができまいが、結局自分にできることは、ただそのままを形にすることだけなんだから。

自分のそのままを、生きた証として、ただ世界に残したいだけなんだから。

生きた魚を食べたら、少しは元気になるかな~と思って、近くの漁港に釣りをしにいった。

水面を眺めながら、ぐったりとした自分のそのままを感じていると、隣に子連れの家族が釣りにきた。10歳くらいの少年と5歳くらいの少女が、私のもとへやってきて、少女は私のバケツを見ると「この魚何?」と話しかけてきた。

 

私は先ほどまで反対隣にいた老夫婦に、魚の見分け方を教えてもらっていたので、「背の青いほうがアジで、背の茶色いほうがイワシだよ」と答えた。

すると10歳くらいの少年が、サバかもしれないよ、と言って背の青い魚を私の手から奪って、父親のもとに聞きに行った。背の青い魚は、アジではなく、サバだった。

子どもはそのままだなと思った。自然と同じようにそのままがここにあると感じた。

 

少年少女は、入れ食い状態で、10匹も20匹も釣っている。

2匹しか釣れなかった私を気遣って「ここ魚がたくさんいるよ!ここで釣ったら?」と少女が誘ってくれた。

 

「お嬢ちゃんよ、そこに魚がたくさんいるのは、隣で君のお父さんが餌を大量に撒いているからだぜ」と思いながらも、きっと彼女はそんなことは知っているだろうと思った。

彼女の優しさに感動しながら、ありがとうと伝え、その場を去った。少女の優しさに胸を打たれ、俺もちゃんと生きようと思えた夕方だった。

 

 

柿崎のとむの家は、海開きで観光地化してしまい、私は半分ホームレスになりかけております。

ただ、もうしばらく海にいたいので、ここに留まるつもりです。ちょっと賑わってますが、波打ち際に座って海を眺めてお話しするには、きっと良い時間になると思います。

 

引き続き、とむの家は開放しておりますので、自然と人間にぶつかりたい方はご連絡ください。

・【とむの家開放】自然と生身の人間にぶつかりたい貴方をお待ちしています!

 

では今日はこの辺りで。また明日!ばいばい!

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