やりたいことをやらなきゃいけないという思い込み[99/1000]

日ごとに秋も深まり、明け方も少し寒くなった。

今朝5時、今日を生きたくないと憂鬱な自分がいた。久しく弱気な自分をただ感じていると、「もう少し寝かせてくれ!」と身体が叫んでいるのが分かった。「ああ、なるほど、もうちょっと寝たい気持ちと、今日を生きたくない気持ちがごっちゃになってるのだな」と知った。「鬱の大半は睡眠不足」という言葉を思い出した。

 

2つの道があった。起きるではなく、寝るを選択した私は、信念が弱まっていたのだった。最近は、自分の信念が弱まるタイミングというのを注意深く観察している。たとえば、瞑想中で言えば「もう目を空けてしまおう」とか「もうこれ以上は無理だ」みたく弱気になるタイミングがしばしば訪れる。

 

日中も、今朝のように信念が弱まるタイミングがある。そこには必ず何かしら理由があって、自分に心のない言葉をかけたり、時には勇気をくじいたりする。どんな時に信念が弱まっているのかは、自分に強くあるために知っておきたい。

私は、瞑想の時もそうであるように、今朝のように身体が眠りを欲しているときは、特に信念が弱まりやすい。他にも、疲れているとき、自分との約束が守れなかったときは「なんて俺はダメな人間なんだ」と自己攻撃が始まる。

 

身体を痛めつけることが目的ではなく、自分自身で決めた規律を守ることが目的。そこをはき違えれば、ただのマゾヒストになる。

これから寒くなって、眠りは恋しくなるが、やはり私は朝の冷たい空気と静かな時間が好きだから、朝は早く起きることを課したい。今日のように、ちょっと眠かろうと、気分が乗らなかろうと、ウェイクアップ!

大きく深呼吸して、いい言葉に触れて、熱いコーヒーでも飲んで、身体を動かしてたら、勝手に元気になることは容易に想像できる。

 

精神修養 #8 (2.5h/28h)

・ひたすら忍耐。途中、何度も目を空けたくなって、その都度、自分に何が起こっているかを観察する

・足が痛くなっているとき、眠くなっているとき、集中することに疲れたとき、耐え切れなくなって目を空けたくなる(信念が弱まる)

・「長すぎやしないか、もしやタイマーが壊れてるんじゃないか」みたいな思考が生まれ、そこに反応すると目を空けてしまう

・ぐっと耐え忍ぶと、気づいたら眠気はどこかへ消えることがある。だから先を信じて耐え抜き、ただひたすら呼吸に集中すること

・色んな思考が生まれ、呼吸に帰ってくることを繰り返していると、1時間経つ頃には、大きな旅を終えた感覚になる

・「高校のテニス部では、精神論が忍耐を支えていた。精神論は、言葉の美しい響きを用いて、自己暗示をかけることかもしれない」

 

・夕の瞑想。実家におり、食事の質も変わり、晩に食べすぎた。食べ過ぎると、眠くなりやすく、また意識も曇る。

・ラスト20分で、もう倒れたくなって、これ以上はもう無理だと感じ、外に出て新鮮な空気を吸った。そのまま夜の森で、眠気が飛ぶまで、5分ほど立ちながら瞑想し、なんとか1時間完走。

・「夜通し勉強し、眠くなったら外の空気をよく吸いに行くのは、試験前のテスト勉強みたいだなと思った。しかしこれでいい。気分ではなく律している」

・1時間やり遂げることに意味があると感じた。途中立ち上がるのは、瞑想の質は悪いが、やり遂げることで忍耐を養える。

・夜の森に入っていくのは怖いが、夜の森の中にいることは怖くない。感情も同じで、外側を見て恐れることはあっても、内側に飛び込んでしまうと、あまり大したことはなく、弾けて消えてしまう。

 

私は何か大きな趣味があるわけではなく、お金を稼ぐことにも興味がなく、一番の関心事はずっと自分を探求し、人格を磨き上げることだった。毎日、言葉を綴っていても、学校の先生をしていても、山にのぼっていても、旅をしていても、家のない生活をしていても、最終的な関心をつきつめていけば、いつも自分にぶちあたる。

人格を磨くなんていうと、なんとも堅苦しいが、要するに自分がカッコイイと思う人間になるということ。味のある人間になること。死ぬまでに、ひたすらそこを目指したい。

 

私はいま、成し遂げたい何かがあるわけではない。自然の中に、自分の手で自給自足暮らしをつくりたいと言葉にしたものの、それが本心の奥深くから渇望している言葉なのかと吟味すれば、そうだと言い切れないでいる。

つまり、特にやりたいことがない。だから今日も結局、山にいる。こうして言葉を書いて、呼吸をして、仕事をして、本を読んで、スタスタと山に登ろうとしている。

 

自分が何をしたいのかを考えすぎると、沼にハマる。そもそも「自分がやりたいことをやらなきゃいけない」と思い込んでいることが間違いだと思うようになった。

やりたいことをやる姿は自由だが、それがいつも美しいとは思わない。

 

目の前に転がってきたことを、ただ受け入れて、愚直に1つずつ跳ね返していけばいいのではないか。

楽になることや、楽をすることがゴールではない。涼しい顔して生きることも、幸せになることもゴールではない。苦しみも、不幸も、歯を食いしばった顔もひっくるめて、全部が人生をつくる。全部がゴール。

 

今がどんな状況であろうと、ただ目の前に転がってくる岩をはねのけていく。それしかできないだろう。

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