野垂れ死にするために一人出ていくのだ。[265/1000]

人に世話になるほど、生命が死んでいく感覚をおぼえるのは私だけか。

世話をしてくれるのは、私を愛してくれている人だから、こうした思念を抱えること自体、傲慢で、不義理なことであることは承知している。実際、かつて、病で寝込んだ時、居候の身でありながら、つきっきりで看病してくれた、とある女性を傲慢さによって傷つけたことがあった。彼女からしてみれば、裏切られたと感じたに違いない。優しさを素直に受け取れたらいいが、自分の生命燃焼を差し置いてまで、人の優しさを受け取る強さを、私は持っていない。人から善意を素直に受け取ることもできず、かといって自分の苦しみを伝えることもできない。生命が死んでいく感覚に一人絶望しながら、最後は耐え切れず乱暴に出ていくことしかできない。

一緒にいたいが、一緒にいては破滅する。それでも一緒に居たいと思うのが、愛だろうか。違う気がする。本当の愛は、生命燃焼に抵触しないものだと思う。駆け落ちや心中などのように、同じ破滅でも、生命が燃焼する、その核で燃え盛るものが愛だと信じる。

 

現世にあらわれるものは、すべて結果だと思う。幸せも、愛も、友情も、名誉も、誇りも、全部結果であって、追い求めるものではない。追い求めるものは、この生命を燃焼させることだけであって、すべては結果としてついてくる。はっきりと言葉にすれば、幸せになることも、愛に生きることも、全部、生命燃焼の結果にすぎず、向かうべき目的ではないということ。

横を見た途端、これら宇宙の高潔は、欲望にまみれた俗物となる。幸せ(のようなもの)、愛(のようなもの)、友情(のようなもの)、名誉(のようなもの)、誇り(のようなもの)は欺瞞に満ちている。横にあるように見えるものは、横にはない。これを手にするには、一人で宇宙の永遠を志向するしかないのだと思う。

 

欺瞞と言っても、ここにある「幸せ」を乱暴に捨てて一人出ていくことは、最低である。しかし、これが生命を燃焼する唯一の道だとしたら、運がよければ幸せになるかもしれない。期待はしないよ。期待すれば、目的地は生命燃焼ではなく、幸せになることに切り替わってしまうから。ただ野垂れ死にたくて、野垂れ死にするために、一人出ていくのだ。ああ、月と六ペンスを読み返したい。あのおそろしい魂がひつようだ。

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