山形の海沿いに、嵐がやってきた。嵐のど真ん中にいるっぽい。
ゴーッと唸る大雨と暴風に包まれながら、岩にぶつかって砕ける荒波を見ていたら、死を思い浮かべた。
荒波の向こうのすぐそこに、嵐を操る龍神がいるような気がして、畏れ多き圧倒的な存在を感じていると、自分自身の小さな命が浮き彫りとなった。
車体をグラグラ揺らす風の塊は、龍の吐息のようで、叩きつけられた雨は、爪で引っ搔かれているようだと思った。
この圧倒的な存在を前に、ただ畏れ、戦慄し、祈り、この場を生きてやり過ごそうとしている。
宗教に生きた人は、こんな感じだったのかな。
今は科学で台風を理解し、人類は安心を勝ち取った。しかし、自然を理解したつもりになっても、自然を制する力を手に入れたわけではない。
恐れから目を背ければ、自分が膨れ上がり、命が見えなくなり、自然への畏敬の念も感じられなくなる。
宗教に生きたときから、人そのものは何も変わっていないんじゃないかな。私はいつも、身一つで自然にいくと、自分の力が虫けらのように無力で、圧倒的な存在にただひれ伏すことしかできない。
精神修養 #3 (2h/15.5h)
精神が少しずつ少しずつ、研ぎ澄まされるのが、体感値としても分かる。
肉体の自分が絶対的な存在だったのが、精神の自分の存在でいられる時間が増えたことで、絶対的ではないと感じることがある。結果的に、肉体への執着が少しずつ弱くなっていると感じる。
先日、山登りをしたとき、クマに怯えていたことが思い出された。あの時は肉体の自分が絶対で、肉体の自分を守りたくて怯えていたのだと感じる。
肉体の自分が絶対的ではなくなると、肉体の自分への執着が薄れる。以前のクマのときのように、恐怖に圧倒されることは少なくなるだろう。
近くの中学校があるらしく、吹奏楽部の練習が聞こえ始める。親子連れの方が公園に遊びにきて、子供の大声や、シーソーの音ギコギコした音も聞こえる。
瞑想に集中するという意味では、静かなほうが好ましいが、私が日々生きる世界は、静かな山奥ではなく、こんな人や音に満ちた世界だ。
砂浜で走ると、足腰に負荷がかかり、いいトレーニングになるのと同じように、瞑想もある程度の煩さの中では、一層集中にも磨きがかかると信じたい。
料理人にとって包丁は仕事道具であるように、人間が生きることにとっては精神がそれにあたるように思う。
毎日手入れして、研いでやらなきゃ仕事にならない。
日中も、自分の考えていることや、呼吸に気づける時間が増えてきた。
数年前、10日間の瞑想合宿を終えた後も、こんな風に気づけていた。
この状態はいわば、包丁を研いだことによって、肉や野菜をさばきやすくなっている状態。でも、さばけるからといって、包丁を研ぐことをやめれば、切れ味は徐々に落ちていく。
当時は、呼吸に気づきながら生活できていたから、これで瞑想したつもりになっていて、胡坐を組んで座るということはしなくなった。
結果、いつの間にか意識は錆びついていき、反応だらけの慣習に支配された。
肉や野菜が少しずつ切れるようになっても、慢心は禁物。ただひたすら、研ぎつづける。
瞑想をしていると、「ああこれは絶対に毎日やったほうがいい」って直感的に思えるからなんだかんだ毎日続けているけど、ふとした拍子に「これをしてどこに向かいたいのだろう?」みたいな疑問がわいてくる。
僕が思ういい生き方みたいなものが、自分自身が、風であって、太陽であって、空であって、大地であって、川であって、木々であるような生き方で(何とも漠然としているけど)それらすべての中心に「呼吸」があるような気がずっとしていた。
呼吸からすべてがはじまって、呼吸ですべてが終わるような日々。呼吸を吸うことで生きて、吐くことで死ぬような日々。(吐くことは排泄でいらないものを捨てるという意味では死、しかし自然に放たれた死が自然にとっては生で、その無限の交流の中に生きるような。ん~言葉にできない)
書いていることがなんともフワフワしていて、自分でも何書いてんだろうみたいな感じで恥ずかしくなっているけれど、これらがどういうことかは、呼吸をつづけるうちに、1つずつ分かっていく気がする。
こんな心持で、精神修養つづけていく!
ブログでは当分、精神修養記を綴っていくので、どうぞお付き合いください。
では!
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