「もらとりずむ」というブログ名でかれこれ5年近くやってきたが、この度「草枕月記 -くさまくらつき-」と改号することにした。
何者でもない私の思想など、読み手にとっては問題とされないかもしれないが、せっかく縁をいただいた数少ない読者にはこの場を借りて意図を明かしたい。
もらとりずむ
元々、もらとりずむとは、モラトリアムとイズムを掛け合わせた、23歳の私がつくった言葉であった。
モラトリアムは「猶予期間」と訳される。イズムは「主義」である。要するに、腰の据わらぬ青年がいかにして働くかを問う、今風に言えば「自分探し」のために、社会から猶予をもらうことをいう。
23歳の私は、教育の道に信念が煥発され、全ての内定を蹴って新たに大学に通い直していた。自分の情熱がわくことや、やりたいことを仕事にすることが、人間の幸せに繋がるという、ヒューマニズム的時代の風潮にすっかり魅了されていたのである。魂が失われ、自分が分からなくなる時世だったからこそ、その救済を、自己を問うことの内に見つけられたらと、”もらとりずむ”は生まれた。
しかし、2年間の追加教育を終え教師となったものの、ほんの数ヵ月で心身の調子を崩し辞職することになる。再び、自己を問う必要に迫られた。
間借りする金がないわけでもなかったが、家にいると自分が駄目になっていく感覚があったから、家を持たず生活することにした。スーパーカブの50ccに服とテントと寝袋をくくりつけ、冬は氷点下10度まで冷え込む、八ヶ岳の麓にある森にテントを張りながら、近くのホテルへ皿洗いの仕事に出掛けた。
教師をしていた時分と比べれば、ずいぶんと落ちぶれた暮らしである。しかし、溜めた金で海外に旅をしようと決めていたから、惨めな暮らしにも耐えることはできた。
いよいよ、オーストラリアへ横断の旅へ出かけた。捨て身のヒッチハイクで西から東へ、ゴールドコーストから昇る朝陽を目指して砂漠を駆け抜けた。横断は成功した。朝陽は息を呑むほど美しかった。あれほど神々しい景色には、二度と出会えないだろうと思う。そのまま死ねたら人生は幸福だった。しかし、黄金の朝陽が昇り終えても、私は生きたのである。
渾身に力を振るっても、生の反響は空しかった。私にとって虚無は宿命となった。虚無に敗れ、心身窶れ、帰国後には引きこもりの鬱となった。失望は大きく、底の底まで落ちていった。【人間の本質はとぎれることのない光である。[385/1000]】
以上が、もらとりずむに生きた末路である。そのまま生きてうまくいく者もあるが、幸か不幸か私は挫折したのである。時代が何のために生きるか意味を与えない今日、自分のために生きろと言われるが、自分のためだけに生きられるほど人間は安っぽくないのである。
草枕月記 -くさまくらつき-
「幸せだけに満ちた世の中は息苦しい」という友人の言葉をきっかけに、死を考えるきっかけを得た。「武士道というは死ぬことと見つけたり」が有名な葉隠に出会うのもこの時である。時代の書物を読み込み、葉隠を慕う執行草舟先生に学びを深め、もう一度生きようと気概を紡ぎ出すことができた。
「青年は自分探しに明け暮れているのではない。死に場所を求めているのだ。」と今は信じるのである。国を守るため、親に恩返しをするため、家族を守るため、自分よりも大切な存在のために、死んでもいいと思えることこそ、人間の仕合せである。そのためなら、いかなる仕事だろうと構わないと思えるのが人間の愛おしいところではなかろうか。
戦争に敗れ、武士道を失い、魂を失った日本人は、安心安全、健康や幸福の価値を信じて疑わない。しかし、肉体本位の水平的な生き物となり、歴史から孤立していることに不安感をおぼえているのが、現代人の悩みの根源である。
人間の個人の生き方を考えるときには、まず時代の宿命を受け入れねば、浮ついたものとなり瓦解する。かくして、人間と生き方を改めた私は、これまでの人生を反省して、「草枕月記 -くさまくらつき-」と改号し、この場に修身と探求の過程を記すことにしたのである。
未熟で稚拙なことは百も承知で、恥を忍んで書いている。成熟した答えを求める人間には、このブログは合わないだろう。魂の価値を信じ、探求する心意気のある方に読んでいただければ、とても光栄である。
森の家にすむ[2023.7 追記]
20代の家なし生活に終止符を打つべく、八ヶ岳の麓にある森に小さな家をつくった。森の家に住むことは、家なし生活をはじめた当初に夢にみたことだった。それが5年越しに形になった。
無論変わらず、この森に願うことは「魂の救済」と「生命燃焼」である。便利と快適、安心安全の文明社会から距離を置くことで、生命の輪郭を保持したまま、死の果てまで突っ走っていけるような生き方を願うのである。
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