最後に笑ったのはいつだろう。
一人の時間がつづくと、笑いのない日が淡々と過ぎていく。
魂の鍛錬といって、孤独を肯定してきたが、昨晩から今朝にかけては、どうしようもない苦しさにすべてを投げ出したくなった。
父と母の顔がみたい。友人に会いたい。誰でもいいから、心ある人に会いたい。
そんな気持ちも遠い昔のものとなった。
幸せそうに見える世界も、陰を見つめれば多くの人が苦しんでいる。
世界の幸と不幸は、光と影、陰と陽の関係にあるのだと思う。
世界の光が眩しくなるほど、陰の暗さも一層濃くなるように、世界の幸せと同じ分だけ、世界には不幸がある。
幸せも不幸もエネルギーである以上、この相対性がアインシュタインのいった宇宙の法則ではないのか。
皆が幸せな世界など本当にあり得るのだろうか。
それは世界から一切の影を無くし、光で満たそうとすることではないのか。
しかしこの宇宙においては、眩い光を当てるほど、陰は色濃くなるだけではないのか。
幸せになろう、幸せになろうと、世界が躍起になればなるほど、見えないところで不幸な人間の苦悩は増していくだけではないのか。
自分が幸せになれば、どこかで不幸な人間が生まれ、自分が不幸になれば、どこかで幸せな人間が生まれるのではないのか。
残酷だが、幸せな人間がいなくならないかぎり、不幸な人間もいなくならないのではないのか。
それを本当は心では知っているから、誰かと比較して妬んだり羨んだりするのではないのか。
皆が幸せといえば聞こえはいいが、この膨大な人類の歴史の中に、そのような瞬間は一度だってあったのだろうか。
幸せなときに、誰かを不幸にしていることを知っているから、皆で幸せになりたいと善人ぶって、罪悪感から逃れようとしているだけではないのか。
幸せになることの後ろめたさを知っているのではないのか。
だから本当の愛は自己犠牲の愛なのではないのか。
かつてキリストや釈迦がそうであったように、陰に光を当てられるのは、本物の愛しかないのではないか。
すべてを投げ出して楽になりたくなるが、投げ出したとて、どうしたらいいのかは本当は自分でも分かっているだろう。
考えても考えても、道は1つしか見つからない。
精神修養 #54 (2h/116h)
自己を貫く一本の時間の流れ。流れを形成するのは、意志と関係のないところから湧き出る思考だった。思考が止まれば世界は消える。
深く瞑想ができる時間がつづくと思えば、まるきり集中できない瞑想がつづく。
修行において疲労困憊になっているのか、魂の鍛錬に屈服する自分がいる。緊張感はまるきり失われ、1時間の瞑想を肉体が拒絶する。
食事を中心に生活を質素を貫き、厳しく制限してきたが、心の反動も凄まじく、ひたすら身体が美食を欲する。
肉体の拒絶を感じながら、屈服しそうな自分がいる。
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