本気にては大業ならず。気違いになりて死に狂いするまでなり[143/1000]

若者が都会を欲するのは、命を燃焼するのに都会の刺激を必要としているからではないか。

年寄りが田舎を欲するのは、生命燃焼を大方終え、命の燃焼を急ぐ必要がなくなったからではないか。

 

「幸せになることは人生のゴールに見えるが本当はゴールではない」というのが、今の私の中では1つの答えとなった。幸せだとか不幸だとかを大事にしようとするのは所詮自我であり、この身体に宿った命は、ただ燃焼し死に直進するという一方向にのみ、ひたすら作用する。

幸せだろうが、不幸だろうが、命は興味がないといわんばかりに、そんなことはおかまいなしだ。不幸は苦しいが、それでも命は燃え続ける。

 

 

苦しい時は幸せを欲するが、荒波を1つ乗り越えて平静な時が訪れると、傷のない1日に虚無を見つけるようになる。表面上では幸せになることを望みながら、本当にこのまま幸せになってしまっていいのか?という疑問をずっと抱えていた。

苦難に見舞われ、大失恋をして、情熱的に走り抜けるドラマチックな映画に感動しながら、本当は自分自身もそんな人生を送りたいと思っていることを、私は認めなければならない。

不幸であるときと、幸せであるときの命の燃え方は、別者であるように思う。不幸は命を内側から燃やし、幸せは命を外側から燃やすような。

 

「本気にては大業ならず。気違いになりて死に狂いするまでなり」と葉隠の一句にある。

本気、すなわち頭で考えて何かをしているうちは、常識の範疇の生き方にしかならないということ。大業、すなわちドラマチックな生き方は、常識の外にあることを葉隠は言う。確かに映画を観れば、常識外れの狂人だらけだから面白い。

気違いになるとは、頭で考えてなれるものではないのだろう。だから葉隠はそんな常識人に対して、事前に進むべき道を提示してくれている。

「二つ一つの場にて早く死ぬ方に片付くばかりなり」「図に当たらぬは犬死などと言うは上方風の打ちあがりたる武道なるべし」というように。

 

精神修養 #53 (2h/114h)

悲しいことも、怒りたいことも、ひたすら嫌悪にかりたてられることも、すべてを己の罪として認め、赦しを乞いたい。

キリストの主の祈りに「我らに罪を犯すものを我らが赦すごとく我らの罪をも赦したまえ。」という言葉がある。苦悩とは実は人間の過ちであり、罪であると考えることは私にとって大きな衝撃だった。

 

苦しい時間がつづくと、何に苦しんでいるのか分からなくなる。寂しさの中に居続けると、寂しいという感覚すら分からなくなってしまうように、感覚は時とともに身体に染みつき、次第に発端よりも、惰性に苦しむようになる。

 

肉体にのしかかる重苦しい感覚をしばらく感じていた。氷のように張り詰めた身体はとても冷たい。暖房もストーブも風呂もない生活で身体は芯から冷え切っているのは、苦しみが一層際立つ理由なんだろう。

冷え切った身体に温もりをもたらすのは、家族や友人の顔だった。顔が思い浮かばれる度に、一滴の温かさが氷上に落ち、落ちた一点を起点に全身の氷が溶けていくのを感じていた。

 

涙が出そうになるのを堪えながら、涙とはまるで、一点の温もりによって溶けだした氷の滴なのだと思った。寒い日々は、孤独の苦しみを助長させるがこの苦しみが人生を学ばせてくれる。今はひたすら耐え忍ぼう。

 

 

連日晴れてありがたい。朝晩は零度近くなり、身体が冷えて心も冷えやすい。日中は陽ざしが温かくて気持ちがいいので救われる。紅葉もすっかり綺麗になった。諏訪湖は穏やか。空は雲一つなく広い。

みな元気にやっているだろうか。笑って生きているだろうか。

今日を生き切った祝杯をあげたいな。

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