愛されるだけの人生は行き詰まるが、愛する人生は道がつづく[448/1000]

愛してくれる人がいなくなれば、いつ死んでもいいと思えるが、愛してくれる人がいるかぎりは、ちゃんと生きなければと思う。ちゃんと生きなければと思えるかぎり幸せな証拠であり、いつ死んでもいいと思えてしまうことは不幸で悲しいことである。

しかし、これはあくまで未熟な考えであり、成熟した人間は誰かを愛することに自己存在をシフトしていく。親もいつかは死ぬ。愛されるだけの人生では、そこで行き詰まるが、誰かを愛する人生であればその先に道がつづく。

恥を忍んでいえば、私は未熟な人間なので、このままいけば、いつ死んでもいいと思うような生き方に突入するかもしれない。不幸や孤独をいとわない覚悟は決めたつもりであった。生命的にはそれも間違っていないのかもしれないが、人生から愛の関係が失われれば、ほんとうに寂しく空虚なものになるにちがいない。

それが嫌ならば、愛の問題に立ち向かうしかない。モームは「月と六ペンス」のなかで、画家のストリックランドに、女は愛を問題にするが、男はそのかぎりではないと雄々しく主張させている。しかし、男の問題にしろ女の問題にしろ、どちらに道を切り拓こうにも強さは必要である。消極から積極へ、受動から能動へ態度を変えていかなければならないことには変わらないだろう。

 

この週末で森に来た両親に、地元の店を案内させられ、久しぶりに外の人間と話したが、長いこと森で孤独に生活していた私にとって、オフラインからオンラインに復帰し、同期される感覚があった。一人でいる、つまりオフラインの状態が長いことつづくと、悪いことを考えて自分がとんでもなくダメな人間だと思い込むようになるが、オンラインに復帰すると、その感覚のズレが修正され、ピタリと調子が戻る。実際、一人でいる時間や、ネットを見ている時間は、常にこうしたズレが起こり続けているのだと思う。毎日、会社や学校に行く健常な人間は、オフラインの場でズレが修正されるので、健全でいられるのである。

 

家づくりの外装が終わり、一種の燃え尽き状態にあったが、両親に気持ちのいいほど驚いてもらい、燃え尽きの峠は越えたようである。気はさらに引き締まり、ここから一気に家を仕上げて、やってくる人間を楽しませてやろうという心持ちが据わった。さあ、明日からいよいよ、一気に仕上げまでもっていく。

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