「無気力」から「力」の原理へ[565/1000]

電気のいっさいない三ヵ月の隠遁生活で、感情は森厳に整列した。脳髄は素朴な鎧を身に纏い強くなった。

文明生活のぬるま湯に馴染んだいまは、かれらも随分と放埓になった。ストーヴのおかげで手足が霜焼けになる心配はひとつもない。正月のおせちと肉魚のご馳走に胃袋は肥え、電脳社会の賑やかな風に、孤独はひとり先に山に帰って行ったようだ。

 

だが、私が隠遁生活から文明生活にもどる際に誓った、素朴な慣習を、技巧的なものや虚飾的なものから守ることだけは、徹底している。素朴な慣習によって煥発される「エネルギー」の原理に生活を築き上げることも、相変わらず弁えている。

私はエネルギーを賛美する人間だ。「ぜいたくは敵だ」という貧しい時代もあったが、今日の正月のぜいたくも、生命熱を煥発する”伝統的”、”素朴な”慣習であるかぎり善であると私の「善悪」は言う。

酒を飲め。美味いものを皆で食べよう。初日の出を見ながら、新年の幸せを祝おう。それでいいのだと、私の善悪は言う。

 

あえてこんなことを書くのも、わたしの「野性」が「幸福」を死ぬほど恥じているからだ。わかっている。「幸福」は自己目的にはならない。颯爽と駆け抜けてゆかれるものだ。幸福は、小道の脇に咲く花々、木々に実る甘そうな果物だ。案ずるな。幸福の甘い誘惑に、惑わされないだけの「聡明」すらも、「放埓」は心得ている。

 

***

 

素朴な慣習に、感情を煥発しつづけているおかげであろう。わたしの基礎体力は、軒並み上昇していたようだ。この五日間は、母に頼まれた大きな大工仕事を、朝から晩までこなしているが、まったく疲れ知らずの働き通しである。

 

手前味噌であるが、こういう状態を「元気」というのだと感じる。病は気からと言うが、逆にいえば「気」がありさえすれば、何でもできてしまうのが人間の不思議な力である。素朴な慣習によって、「無気力」の根を断ち切れば、生活の全ては「力」の原理で動くようになる。コーヒーや紅茶を愉しむときも、食事のときも、音楽を聴くときも、睡眠をとるときも、「力」の原理で動く。休む間にも、生命は宇宙に向かって放射をつづける。「享楽」とは、宇宙の力を媒介する物質にすぎないのであり、力の原理をもってこれにぶつかるので、慣習の髄に秘められた「気」は流れ出す。飲むぞと思って飲む。寝るぞと思って寝る。静動問わず、常に、主体の意志がここに働く。

これこそ、エネルギーを賞賛する生命救済の道、換言すれば、常に「力」とともにある原理ではなかろうか。

 

2024.1.6

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