怖がって何が悪い。初めてが怖いなんて当たり前だ[106/1000]

岐阜は笠置山。山ごもり6日目。

6日目にもなると、目新しいことはほとんどない。いつものように、一本歯の下駄を、一定のリズムで地面に歯を叩きながら、展望台に向かう。展望台といっても、大きく剥き出しになった岩の塊が「展望台」としての役割を果たしているだけの荒々しいものだ。

岩にのぼるための補助的な階段はつくられているものの、足場は荒々しく、一本歯の下駄でここを登るのは、両手と頭を使う。

 

今朝もいつもと同じように、岩の上に登り、広い空と恵那山を拝んだ。初めて見たときの感動はもうないが、その代わり安心があるなと思った。この荒々しい岩に登ることも、初めは躊躇していたが、今は岩に登ることにも、安心を感じている。

感情の訪れには、順序がある。1番先頭に立つ感情は「恐怖」だと思う。2番目に立つ感情は「緊張」、3番目に「感動」、4番目に「安心」、そして5番目は「感謝」、0番目は何だろうか。

 

安心が増えるほど、感動に出会う機会はめっぽう減る。それは新しく安心に向かわなくても、既にある安心で間に合わせられるからだ。つまり「安定」する。安定とは、安心が積み重なって、束になったような状態だ。

安心はいい。私は今、熱々の珈琲を飲みながら、安心している。しかし、この安心の入口は、いつも不安定なものだったと覚えておきたい。珈琲1つ飲むにしても、初めは黒い液体をおそるおそる口にしていたのだ。

 

初めてのことは怖い。緊張する。しかしそんな私たちを待つのは、感動であり、安心であり、感謝であり、誇りだ。

それを忘れない。怖いのは、はじめだけだ。

精神修養 #15 (2h/40h)

・心の第一層が剥がれ落ちたといっても、集中しようという固い意志がなければ、当然集中力は落ちる。

・「あの人は変わらず元気にしてるだろうか」と過去に出会った人の顔が延々と浮かんでは、考えに憑りつかれてしまった。

・集中できなかった。瞑想するのがお昼近くになったことで、自我が完全に起きたことに起因しているのだろうか。

 

・夕の瞑想。微かな呼吸だけの状態になり、手足や身体の全部が、1つの岩のようになった。不思議な感覚。

・呼吸への集中が高まると、こうした恍惚体験が生じるが、心地よい感覚に執着しては本末転倒。感覚を好くことも嫌うこともせず、そのままを観察する。

・今思えば、食も娯楽も制限され、誰とも話してはいけない10日間の瞑想合宿は「心の断食」だったように思う。

・今の1日2時間の瞑想は、軽いファスティングにも及ばず、日中の体験(吸収)に対しての排泄に過ぎないように感じる。

・同じスピードで歩くことを心掛けながらも、感情に飲み込まれると思わず、立ち止まってしまうように、瞑想中も反応すると目を開けてしまう。

・1時間通しで、目を開けず、座りきるぞ。これは忍耐の訓練でもあることを忘れない。

・精神修養は、技術習得である以上、礼に始まって礼に終わることを心掛ける。

 

教員時代、私が目指していた教育は新しいものだったが、今は古いものの価値も少しずつ分かるようになってきた。

例えば「礼」。授業の始まりと終わりの挨拶は、軍隊みたいだと揶揄されることもあるが、技術の習得にあたって、礼は必要だ。礼をするから気持ちが入る。集中できる。精神論にも聞こえるが、スポーツの強豪校を見れば、強くなるために礼が必要なことは一目瞭然だ。

 

スポーツと勉強は別物のように扱われるが、勉強も本当は、スポーツと同じ技術だ。国語は、行間を読む技術。英語は、話す、聞く、書く、読む技術。数学は論理的に考える技術。理科の実験も技術で、地図を読むことも技術。

技術は、鍛錬を怠れば、廃れていく。だから学校で習った大半のことは、大人になるとできなくなる。(大人になると「忘れる」というが、「できなくなる」こともある)

 

フロムは愛することは技術だと言った。三木清は読書を技術だと言う。瞑想をしていても、瞑想は技術だと感じる。生活は技術にあふれているが、技術だと思って何かをすることはほとんどない。だから、気分のままに取り組んで、身につかないまま辞めてしまう。

技術だと思えば、心構えは変わる。スポーツの強豪校のように、量をこなすだけではなく、規律や礼、忍耐の必要性も浮き彫りになる。

 

生活に礼を取り入れることにした。私はいま、毎日一人なので、挨拶をすることはない。気分のままに過ごすこともできるが、黒板に書かれた時間割のように、自分でやると決めたことの前後には礼をして、技術鍛錬に励む。

瞑想をすると生活に輪郭が生まれたが、礼をすると、輪郭の内側にさらに輪郭が生まれるのが分かる。

 

行き過ぎた管理主義は、恐怖のあらわれだ。あれは管理ではなく、支配だ。だから勘違いしそうになるが、規律全部が悪ではない。むしろ、自分自身に礼をもつことは、自分に対する敬意なんじゃないかな。

 

「今日も自分よくやった!ありがとうございました!」って深くお辞儀してみれば、心は晴れ晴れとすっきりする。

自分への挨拶も忘れちゃならねえぜ!

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