堕ちることを知らない人間は、心はあっても精神はない。[325/1000]

325日目。毎日残すこの言葉を、恥のあまり燃やしてしまいたいと何度思ったことだろう。0~100日目は感情と虚無、100~200日目は武士道と死、200日目~300日目は魂と生命の救済、そして300日目からは善悪と堕落が中心のテーマになりつつある。運命の歯車が、ひとつ、またひとつと回転するごとに、自分の知らなかった世界がそこに横たわるが、その度に大海原を前に砂浜で遊んでいる赤ん坊にすぎないのだと自覚する。

ここ数日間も堕落について書いているけれど、堕落を書くことはとても苦しい。どんな言葉を綴ろうと無意味、(これはすべてに言えることだけれども)最後にはもう行動にうつすことにしか真実はないと知るとき、それ以上に無理やり生み出す言葉は変に理屈っぽくなるばかりで、頭が熱っぽくなる。自分の心臓を握られながら、目の前の奈落に堕ちることだけが試されているようなのだ。

 

早寝早起き、健康な食事、毎朝走って、ゴミ拾い。お天道様にお辞儀をし、隣の婆さんに挨拶をする。爽やかな風に鼻歌を乗せ、今日も元気で笑顔の1日が始まる。そうして生きれば、心は綺麗になる。道徳は心を綺麗にし、堕落は心を荒ませる。今日は”警察”が増えたようで、道徳を破る人間を、まわりは声をあげて非難するが、気を付けなければ、道徳を守ることが人生の目的となりはしないか。いけないことはいけない、それは正しいことだけれど、魂は地上の道徳におさまるほど生温いものではない。

 

昨日、荒んだ心が耐えきれなくなり、精神に救いの道を見出そうとした。心や感情は、欲望を抱えながら自己の内側に存在するものであり、精神は、宇宙美を備えて自己の外側に存在するものだと思う。坂口安吾は、人間は堕ちきる強さを持たず、最終的には自己の武士道を編み出さずにはいられないと言った。これは、堕落によって荒んだ心の苦痛を経由して、自己の外側に精神を築く過程をいうのではないか。精神を築いた人間は、宇宙の美学に身を委ねながら、いっぽうで地上に残した荒んだ心に、悲哀の涙を宿すのだと思う。精神の悲哀は、堕落と孤独に裏付けられている。

 

しかし、堕ちきる力のない人間の精神などたかが知れている。堕ちる力と精神をつくり出す力は、同じ出力だと思う。堕ちきることのできなかった生命のつくりだす精神はその程度のもので、堕ちきった生命ほど強烈な精神をつくりだせる。堕ちることを知らない人間は、心はあるが、精神はない。精神はいつも宇宙の垂直方向に上昇しようとするもので、下降(堕落)の反動によるものではないか。正しい堕落は、宇宙に対して垂直方向に行われるもので、天との関係の中にある。天がなければ堕落はできず、信仰に対する不信仰が堕落となる。それはやっぱり、つまらないことで、クズ野郎であるに違いないのだけれど、天への憧れに向かうには、堕ちなければならないのだろうか。

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