純粋な一点を目指して、純粋な点になれ[161/1000]

自分に惚れると書いて、自惚れるという。

自分を大事にすることの価値が妄信されると、歯止めがきかなくなって「自分」がどんどん膨らんでいく。

 

自分が好きであることは是とされ、自分が嫌いであることは非とされる世の中だ。

しかし、自分が好きだとか嫌いだとか、本当はそんなことどうでもいいのではないか。自分にこだわりすぎだ。自分を大事にしすぎだ。これを問題にすることそのものが既に自惚れであって、恥ずべきことではないのか。

 

 

自分のことを好きにならなければいけないと思っていた時期がある。自分を好きだという人間は、いわゆる”自己肯定感”が高く、優れた存在であるように思えた(思わされた)。しかしそんな風潮に息苦しさを感じることも事実であった。

この息苦しさは前々から言う、一切の不幸を退け、幸せだけに満ちようとする世界の、生の衝動だけに振り切れた息苦しさだった。この息苦しさを牽引するのが、肥大化し自惚れた「自分」だと思う。

 

昨夕、肥大化した自己を感じていた。毎日瞑想をしていても、無自覚に生きていると、1日の終わりには自分が大きくなる。

キリスト教のいう性悪説が少し分かった気がした。何もしなくても、「自分」は常に膨れ上がっていく。常に自我には膨張作用が働いている。手放しにしているうちは、好き勝手大きくなっていく。この膨張作用を宿した人間の宿命を、性悪だと言うのではないか。

 

なぜある人は毎晩お祈りをするのか。なぜある人は日曜日に教会に行くのか。なぜある人は奉仕をするのか。なぜある人は断食をし瞑想をするのか。なぜある人は質素倹約な生活をおくるのか。

これらはすべて、自我の膨張を制するためではないだろうか。自我を制しなければ、信仰や信念に生きることが叶わなくなることを、かつての武士や信仰深い人間は知っていた。ゆえに自己を厳しく律し、自己存在の輪郭を掴んでいたと思う。

 

 

肥大化した自分に溺れドロドロな苦悩を味わうのも俗世的な味わいがあるかもしれないと思いながら、輪郭掴むどころか、輪郭があることすら忘れられてしまったのが現代人かもしれない。

自分滅することができない以上(悟りを体験しない私はできないと思っている)、自分の輪郭の外側に法を身にまとうことが、金剛般若経に書かれる「法を身とする」だと、ひとまず解釈したい。自我は膨張作用を続けるが、法を纏うことで、外側から圧力がかかる。主への焦がれた思いが強かった武士ほど、この圧力によって自分を制していたのではないだろうか。

 

いや、もしかしたら違うかもしれない。そうかもしれない。混乱している。

葉隠や武士道は本当はもっと壮絶で、信仰が純粋な一点を極めて、本当に死んでいるのかもしれない。(これは『純粋な一点を目指して』にも書いた概念的な死。)自我のまわりに法を纏うのだとしたら、自己が点になるまで強く思い焦がれたのかもしれない。つまり、純粋な一点をめざして「純粋な点」になることが「法を身とする」ことの本当の意味ではないか。

 

もしかしたら一生かけても知ることができないかもしれない。でもそんなことだから知りたくなる。

 

精神修養 #71 (2h/150h)

日が昇る前は、寒くて暗い。自我のエネルギーが定まらないことに起因するのか、寒さに身を律することができず、全身が寒気を回避しようと狂ったように揺れる。抑制されないエネルギーが、そのまま表面化しているようだった。

中村天風は、毎朝、鏡に向かって「私は信念が強い」と自己暗示していた。これは自我のエネルギーが定まっていないことから、言霊のエネルギーを同化しやすいからだろうか。

中村天風が行った念ずることは、金剛般若経の「法を身とする」が意味する具体的行動の1つかもしれない。

 

[夕の瞑想]

「肥大化した自己の輪郭を感じること=癒し」

1日の終わりに肥大化した自分がいる。肥大化した自分の輪郭を感じると整う感覚をおぼえる。その瞬間、疲弊した心が癒されるのを感じていた。

 

無自覚に1日生きれば、自分は大きくなる。だから人々は毎晩お祈りをした。日曜日には教会に行った。「必死の観念一日仕切りなるべし」と山本常朝は言った。奉仕活動をし、質素倹約な生活をした。

法によって定めた小さな規律を守ることで、肥大化する自分に歯止めをかけた。仏教の瞑想と教会における祈りは、本質的な部分は同じかもしれない。

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