幸せを退けていたのではなく、幸せを絶対視する風潮を退けていたのだ。[451/1000]

この世界には、自分が幸せになることに罪悪感をおぼえる人間がいる。そんな人間に対し、現代の社会は「幸せになってもいいんだよ」と優しく語りかける。ほんとうに優しい。たしかに優しい。しかし、いかにも幸せになることに罪悪感を抱えることが間違っているような言い方ではあるまいか。

幸せになりたいのなら幸せになればよい。しかし、幸せになりたいと表面では願いながらも、魂の深淵をのぞいてみれば自己犠牲の上に誰かの役に立ちたいと泣き叫ぶ自分が存在している。この魂の叫びが、自分が幸せになるという物質的ゴールに待ったをかける。おいちょっと待て。たしかに幸せは素晴らしい。不幸よりかは幸せのほうがいいし、ずっと幸せを渇望してきた。皆が幸せな社会を奇跡と呼ぶのなら、まず自分が幸せになることだ。しかし、この幸福に甘んじ、誰かのために命を投げ捨てたいと願う魂をないがしろにしてもよいものだろうか。自分のためにしか生きられず、自分のために死んでいく人生でいいのだろうか。

そんなものは断じてごめんだとする魂が、幸せを退けようとする。魂は幸せや不幸よりも、運命そのものを愛そうとする。表面上は幸せになりたいと願いながらも、深いところでは幸せも不幸も通過点にすぎない状態で生きている。そのため、自分でも気づかないまま幸せを絶対視する風潮に違和感を抱き、それに反発している。

これに気づけば、もう幸せに罪悪感をおぼえる必要はない。ほんとうは幸せを退けていたのではなく、幸せを絶対視する風潮を退けていたのだ。幸せだけが人生だと思えば、不幸の側面の運命を見捨てることになる。それは運命愛に反する。厳密には、幸せだけを絶対視する人生は、人生を愛していないのである。先にかいたとおり、幸せは不幸と同じく表層的な問題で、ほんとうは雲の向こう側には、すべてを照らす太陽が存在している。中村天風先生の言葉であるが、「太陽は美人の顔も照らせば、犬の糞も照らしている。」自らがそんな太陽のつもりとなって、大きなところから、自らの人生を丸ごと照らしていればいいのである。幸せだとか不幸だとかは、その次の問題にすぎない。そして、幸せを退けることも、不幸を退けることもせず、(特に今回、念を押すのは幸せを退けようとしないこと)どちらも来るがままに抱き締めてやればよいのである。

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