危うくやられるとこだった。食い殺してやったのさ。
悪魔は心を貪って、我を狂気へと導く。
死ぬか死なんか崖の淵。胸に刃を突き立てて。
ああ狂ってる、狂ってる。この世はなんておぞましい。
虚無のすべてを飲み込んで、天に誓いを忘れたか。
この世はやるかやられるか。戦わずして誇りなし。
飲まれてたまるか我が剣、悪魔の臓器を貫いて。
待ち焦がれた春風が、流血の痕を讃える。
物質中心の軽薄な世界に惑わされて、宇宙に充満する魂の重みを失うほど、世界は軽くなる。我々人間は、人間としての存在を望むなら、魂の重みを背負わなければならない。その結果、不幸になるかもしれないが、それが人間の運命であり、永遠に抱き締められる誇りである。https://t.co/dbvNijIV5g
— 内田知弥 (@tomtombread) March 19, 2023
高潔な死を想う魂が、武士道や騎士道を生んだ。戦うことに人間の美学が宿る一方で、決して許されない非人道的な惨劇もある。高潔な戦いと、殺戮や虐殺はまったくの別物だ。前者は、人間を人間たらしめるもので、後者は人間の尊厳を踏みにじる。
数えきれない争いと、惨たらしい血が流れた上に今日が存在していることを忘れられない。かつての痛みを感ずれば、惨劇は決して繰り返してはならないが、反戦の言葉が傲慢なエゴイズムの上に敷かれるとき、これまで血を流した人間の魂が土足で踏みにじられているような、悲憤もおぼえる。
古人の跡を求めず、古人の求めたる所を求めよと、芭蕉はいう。血を流した人間が欲したものは、戦わないことでなく、大切な国や家族を守るための愛だったのではないか。そして今日も、悪魔と戦わなければ自己の内に平和を見出すことさえできない。
現世を生きることが戦いで、苦しみに満ちているから、生きる人間同士、労い合うのではないか。善人になりすぎて、悪魔にまでお人好しになる必要なんてない。苦しみのまま、好き勝手虐げられてたまるものか!だから必要な言葉は、いつもこうだ。おい、やられてんじゃねえ!しっかりしろ!元気出せ!立ち上がれ!そして今日を生き切って、誇らしげな気持ちでうまい酒を飲もう!誇りはいつも、戦いの報酬だ。情けねえ顔してたんじゃ、せっかくのいい面が台無しだぜ。さあ今日も戦いに出よう。
コメントを残す