死ぬまで愛に憧れた孤独な人間の物語[250/1000]

キリストは、愛に憧れつづけた孤独な男だった。遠藤周作の「イエスの生涯」を読むと、これまで「聖典」にしか見えなかった聖書は、「誰にも理解されない孤独な男の物語」であることが分かった。神格化されたキリストは遠い存在に感じるが、裏を返せば、神格化されるほどの苦悩を背負って死を遂げたということだ。

聖書には、病気を癒したとか、復活したとか、信じられない話が数々登場する。聖書から読めば、キリストは奇跡を起こしたから神格化されたと思う。科学を知る人間はここでブレーキがかかる。しかし、イエスの物語を読むと、イエスも我々と同じ生身の身体を持つ人間だったことを知る。生身の人間として神の愛を証明するために自分は死んだ。

 

ユダの荒野で仰いだ星々も氷のようにつめたく、生きるものの何ひとつない死海とその背後の山々は怒る神、罰する神、裁く神しか暗示していなかった。旧約の世界が抱きつづけたこのあたまりに厳格な父なる神のイメージ。(中略)

イエスの生涯をつらぬく最も大きなテーマは、愛の神の存在をどのように証明し、神の愛をどのように知らせるかにかかっていたのである。

 

当時は、ローマの支配下に置かれ、ユダヤ教徒は神の怒りと罰と裁きを畏れ、厳格な律法に生きてた。異端者は罰せられる。そんな中、突如、愛の神を教える人間が現れた。今日、愛の教えは誰もが信じて疑わないが、当時の民衆は理解に苦しんだ。愛で盲目が治るはずがない。愛で死んだ人が生き返るはずがない。愛は無力だ。無力な教えなど価値がない。イエスに奇跡と力を求めた人間は失望し、逆に憎んだという。ローマに対抗する先導者だと勘違いする者もいた。

今日風に言い換えるなら、現実に必要なのは、愛ではなく金だ、ということだろう。地上的な価値を求める民衆や弟子は、イエスを孤独に追いやった。誰からも理解されず、孤独に苦悩し、最後に弟子にも裏切られた。それでもイエスは、苦しむ人間に必要なのは愛だと言い続けた。そして苦しみの中、惨めに死んでいった。

 

この数か月の間、彼は自分の死を決意したが、その死が今、迫ってくるのは辛かった。なぜなら彼の死は愛のための死だったから、もっとも惨めで、みすぼらしい形で来るにちがいなかったからである。自分を愛してくれる者のために死ぬのは容易しい。しかし自分を愛してもくれず、自分を誤解している者のために身を奉げるのは辛い行為だった。英雄的な華々しい死に方をするのは容易しい。しかし誤解の中で人々から嘲られ、唾はきかけられながら死ぬのは最も辛い行為である。

 

ベラスケスの「キリストの磔刑」を毎日眺めている。神聖で静謐な魂を感じるのは聖書の奇跡の話と同じ、事実ではなく真実を描いたものだからであろう。現実はもっと汚らしく、群衆に辱められ、想像に絶する悲惨な光景だったに違いない。誰からも理解されず孤独に死んだキリストが、今日、キリストの教えに生きる人々を見たらどう思うだろう。

厳格なユダヤ教を象徴する死海や荒野と対称に、ガリラヤ湖畔の優しい野花にキリストは愛を信じたという。

今日は陽ざしが温かく、優しい風が木々を揺らす。春の訪れを感じるこの穏やかな自然も、キリストが感じた神の愛だろうか。

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