生命の綺麗な部分は、仲良く平和に暮らしたいと願いながら、生命の堕落した部分は、あなたたちと一緒にいられないと退ける。堕落した部分が膨れ上がるほどに、両親と顔を合わすのも苦しくなる。肯定などしないでくれ。受容などしないでくれ。否定してくれ。突っぱねてくれ。恩知らずで親不孝な息子など、さっさと勘当してくれ。親不孝な人間だ。苦痛をこらえて平静を装うほどに、幸福が生命の堕落した部分を苦しめる。幸福とは相容れないのが堕落した生命の不幸性だ。肯定も受容も相応しくない。ただ生命をはねのけて、不幸まるごと運命を愛したいのだ。
肯定とか受容がもてはやされる世の中であるが、ここに道徳はあるだろうか?何もかもオッケーにしちまったら、まともな人間はいなくなって、皆ヒッピーみたいになっちまうんじゃないのか?心に大きな傷を負い、働けなくなった人間に同情する。学校から落ちこぼれた子供たちに同情する。社会や学校が悪いのであって、あななたちには何の非もない、と言えば救われた気持ちになる。
私も落ちこぼれた人間だ。心に傷を負い、さっさと仕事を辞めちまった人間だ。かつてはそうした言葉に救われた。しかし、やっぱり私たちは社会から見れば、落ちこぼれの堕落者であり、毒を飲み干せなかった弱者ではないか。あなたは何も悪くない、あなたは大丈夫だ、と受け入れられるのは、死なれるのが怖いからではないのか。社会から落ちこぼれた状態を、ありのままでいいと肯定されたら、堕落も恥の意識も堕落美も罪の意識もすべて消える。気は楽になるかもしれないが、生命の救済はされるのか?そんなんじゃだめだ、もっとちゃんとしなきゃだめだと、心から叱責してくれる人間に本当は出会いたいんじゃないのか。正当化しようとする自己の過ちに気づかせてほしいのではないのか。
アモールファーティ、運命への愛。肯定や受容などは、堕落そのものに対して行われるべきではなく、運命に対して行われるべきものだと思うのだ。何もかもオッケーであるはずがない。ダメなものはダメ、いけないこといけない、ちゃんとしなきゃならんことはちゃんとしなきゃならん。それができない自分は堕落したのであって、情けなく、恥さらしで、拒絶されるべきである。仮にそうして不幸になったとしてもしょうがないのだ。幸せになることが目的ではなく、この生命を救済し燃やし、永遠に向かい続けることに、虚無への唯一の対抗を見つけるのだから。つまらない人生だったと言って死んでいきたいよ。恥多き人生だったと言って死んでいきたいよ。寅さんみたく、ヤクザな人生だったと言いたいよ。そう言えるくらい、運命への愛を深めたいと思うのだ。
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