「人間とは何か」にどう答えるかで、崇高にも平凡にもなる[214/1000]

今日一日、怒ることも、悲しむことも、恐れることも、心にさせちゃいけないよ。

そう天風先生は教えられていたけれど、初めて聞いたときは、怒りも悲しみも恐れも感じちゃいけないなんて、そりゃ世界から日陰を取り除いちまうようなものじゃないのか?と思う所もあった。悲しみに暮れることは決して生産的であるとは思わないし、自分が当人であれば耐え難い苦悩である。しかし、心に蝕まれる弱さもまた、人間らしさであって、不完全のまま酒や女に溺れ、心身の病を患って人生のどん底を味わう浮き沈みの激しい人生にも、ダメ人間としての魅力があると思っていた。完璧な生き方は綺麗すぎて、陰鬱さが取り除かれた人生は、乾きすぎるんじゃないかと思うのだった。

 

正確には、天風先生は怒りも悲しみも恐れも、感じちゃいけないとは言っていない。人間なのだから感情を抱えるなということの方が無理な話で、感じるものは感じるけど、女々しく嘆き続けることを心にさせちゃいけない、と言っている。心無い言葉を受け取れば、誰でも悲しくなる。しかし、この悲しみを1時間も、半日も、1日も、1週間も、人によっては半年も1年も10年も引きずりまわすのは、愚か者というより、罰当たりのすることだと言う。

 

この考えの土台にあるのは「人間とは何か」という問いである。天風先生は人間は万物の霊長だといった。宇宙エネルギーを源泉とする心をもち、天から授かった言葉を用いれば、自然の法と同じように自らの不調和を調和に向けられる力を与えられたのが人間である。その宇宙から授かった力を、自然の法と真逆の方向に使うのは天に与えられた使命を放棄しているといえる。無自覚に言葉を濫用して、悲しみや怒りや恐れを助長させるような真似しがちだが、天風先生はこれを「天や国を守るための伝家の宝刀を、台所の菜切り包丁として使ってる」と比喩している。言葉とはもともと崇高な目的のためにあるものなのだ。

 

完璧な生き方は綺麗すぎて、陰鬱さが取り除かれた人生は乾きすぎると考えるとき、人間とは何かという問いの答えは、万物の霊長ではなく、”普通の人間”である。普通の人間で何が悪いと開き直ることもできるが、天風先生はインドで修行をしていた時、師のカリアッパ先生に「自分も他人も悪くするような言葉を使っているのが普通の人間だ。真理を探究している人間がそういう考え方を持つことは、非常に恥ずかしいことだ。」と説教を受けたという。怒りや悲しみや恐れを助長させる言葉を使うのは、人間とは何か、心とは何か、言葉とは何かの問いが失われるときなのだろう。

人間をどう捉えるかで、言葉の尊さも、心の霊性さも、人の力強さも、別人のように変わってしまう。自分をその程度の存在だとしか思わなければ、言葉も心も雑にしか扱われない。武士道に生きた人間のように、人間の存在を考えれば、一挙手一投足、言葉の扱いも心の扱いも、雑にはできないはずである。

「人間とは何か」が問われている。これにどう答えるかで、美しくも醜くも、崇高にも平凡にもなる。

 

精神修養 #124 (2h/256h)

身体が眠りたがる朝は、本能心優位になりやすい。眠ろうとする身体に、ダメだ起きろと理性心が登場し煩悶が生まれる。本能心と理性心がバチバチやり合っている間は、この摩擦で肉体に負荷がかかっているように感じる。授業中、眠たい身体をを維持でも起きようとするのはとても苦しいように。理性は時代によって変わる相対的なものであるからそこまで重要ではなく、絶対的なものは霊性心にある。

 

[夕の瞑想]

武士がなぜ恥を嫌ったのか今はよく分かる。誇りの対にあるものが恥である。恥は最も精神性の行いをしたときの感情である。物質的な損得に目がくらんだときに生じることが多い。道に外れたことや、卑怯な真似をしたときに恥は生じる。見苦しく自分が生きたとき恥をかく。恥ほど不名誉なものはなく、かつての人間は男女問わず、恥を見せるくらいなら死ぬことを選んだのだ。それが日本人の美意識だった。

【0円で生きていける拠点づくり】

森の中に瞑想小屋を建て、家を開放するのが直近にやりたいことです。

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